二、唾餘

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 チイチイと、小鳥の(さえ)ずりが小屋の中へと流れ込む。囲炉裏の火はすっかり消えて、(くすぶ)る様子もありはしない。  炉端にはあどけなく眠る巫女の姿。昨夜は興奮冷めやらぬ中、寝食も忘れて只管に祝詞を奉上したこともあり、力尽きてそのまま眠りこけている。  戸は開け放たれ、土間に陽光が射し込み、四角に切り取られた光の中に、小鳥が二羽降り立って、チョンチョンと跳ねては、土間に溢れた豆粒を、小さな(くちばし)を巧みに操り(ついば)んでいる。  暫し後、豆粒を粗方片付け終えた小鳥達は、首を振ってはその(つぶ)らな瞳で小屋の中を(うかが)い見る。近くにその身を脅かす存在がいないことが分かると、チイと鳴いては翼を羽ばたかせ、小さく(うづくま)る猫の寝姿となった巫女の肩へと鉤爪を下ろす。 布越しに爪を立てられたとあっては、夢の深淵(ふち)を漂う巫女も、流石にこそばゆくなって、寝息を止め、眉根を歪め、空空(うつらうつら)(まなこ)を開く。 「あら……、起こしに来てくれたの。おはよう」  巫女はそっと手を伸ばし、指で小鳥の喉元を(くすぐ)ると、小鳥はトロリと瞳を閉じ、羽根をパタつかせる。  そこへもう一羽が炉端に降り立ち、チイチイ鳴くと、更に何羽かの小鳥が土間に降りて鳴き始めた。 「あらあら、大変。早く起きないと――っくちゅん」  秋深まりつつある夜中、何も被らず寝むりこければ体も冷えよう。  巫女は体を起こして手をさすり、囲炉裏の灰を均しては、炉端に置いた巾着から、火打石を取り出して、厳かな所作で三打(みう)ち。  まだ辺りには朝靄が残る静穏の中、小さな小屋からカチッ、カチッ、と、小気味良い調子で広がる音は、泡沫(うたかた)と佇む社を現世(うつしよ)へと引き戻す。  囲炉裏に火が入り、鍋を掛ける頃には山肌からは霧も散り、紅葉も陽光の下に彩りを飾る。小屋の中では巫女がせっせと朝餉(あさげ)の準備に勤しんでいた。その姿を小鳥たちが興味深気に眺めていた。  朝餉を終え、片付けを済ませた巫女は木桶に手拭いを携え、小屋を後にする。小屋の裏手にある獣道の先には細い沢があり、巫女は毎日そこで(みそぎ)を行っている。  一筋の土が(あらわ)になった道の先を行くと、木々の(しげ)りは断ち切れて、一反(いったん)程の草原と、その奥に見えるは千貫を優に越えた大岩。注連縄が巻かれたこの大岩も(また)御神体。ふっくらと広がる尾花は風に揺れ、その穂の一房一房は朝露を蓄え煌めきを帯び、その中に鎮座する大岩の亀裂から、清水が渾々(こんこん)と湧き流れている。  巫女は金色の穂の中を静々と歩いては、大岩の前で三礼三拍手一礼の後、身に纏う衣を落とし、手桶に沢の水を入れ、暫し逡巡の面持ちで水面を見詰めていたが、両眼をきつく閉じると、手桶を頭の上で返し、頭から一気に水を被った。  幾ら日々の慣わしとて、秋も深まる山の水は冷たかろう。  巫女は腹の底から息を絞り出すと、続けて二度、三度と沢の水を被る。四度目、五度目ともなれば、流石に慣れて来たのだろう。閉じた瞳を開いては、ゆるりと立ち上がって、沢の中程まで歩き、はぁ、と、息を吐きながら腰を落とす。  沢の水は巫女のなだらかな曲線を描く下肢を撫でるように流れていく。その水に巫女は手拭いを浸し、白く滑らかな胸元に当てては、ゆるゆると、己が身に宿りし穢れを沢に委ねる。  巫女は彼方へと流るる清水の音に耳を傾けながら、首を、腹を、腕を、と手拭いで擦り、仕上げとばかりに沢の深みに来ては、ざんぶとその身の全てを水に浸けた。  一二三(ひふみ)……と、十ばかり数えた所で巫女は沢から頭をだし、大きく息を吐きながら、沢から上がり水気を払う。 「あら? さっきここで脱いだはずなのですけれど……」  巫女が先程脱ぎ落とした襦袢やら袴やらは沢の畔から忽然(こつぜん)と消えていた。  未だ寝惚(ねぼ)けていたのかと、巫女は首を傾げつつ、沢に沿って歩いて見れば、草叢(くさむら)からカサカサと音がする。その音の方へ巫女は歩き出す。  薄(すすき)の穂は風に揺れ、沢の水で冷えた巫女の体を温めるように、背に腹にと掠めては、その度に巫女の口から笑みが溢れた。 「そういえば今年はまだ薄を飾ってお団子を食べていませんでした」  体は凍えているというのになんとも呑気な巫女である。  ころころと笑いながら、揺れる薄の音を頼りに巫女は草叢の中を歩いては、脱ぎ落とした衣を見つけ出す。足袋が一つ、袴が一つ、襦袢が一つに足袋が一つ。点々、落ちている物全てを拾い上げ、脇に挟める巫女であったが、そのどれもが(ぬめ)りを帯びた濡れ方をしている。 「私ったら、いつの間にこんなに汚してしまったのかしら。お洗濯しませんと……」  巫女は沢に戻ると、滑る衣に苦労しつつも汚れを落とし、再び自身の体を清め、沢から出ては、手早く衣を両の腕で抱き締めると、足早に小屋まで戻って行く。  秋風にざわめく薄の群れから、赫赫とした目が巫女の後ろ姿を見詰めていた。  小屋まで戻って来た巫女は、濡れた衣を竿に掛け、替えの衣に袖を通し、社へ向かうと、重く閉じた木戸を、ふんぬ(・・・)の声と共に引いて開ける。射し込む光が社の中を照らし出し、芳ばしい、木を焚いた残り香が広がる。  小屋同様、社は朽ち掛けで、巫女が山入するときに、僅かばかり直した形跡がそこかしこに見受けられる。  ちぐはぐな床板は巫女の小さな体でも軋み、それでもなるだけ静かになるよう、巫女は厳粛さを以て立ち振る舞う。  これから巫女は、日々行う慣わしの一つである護摩焚きを行うのだ。  社の中程に備えられた注連縄の中には、床板が二畳程外された土の見える床がある。本来なら堀炬燵に使われるべき場所なのだが、土を盛って護摩焚きをできるようにしていた。元の社はとうの昔に朽ち果て、近くに建っていた襤褸小屋二つを改修し、片方は社に、もう片方は巫女の家としたのだ。  先代の巫女は世捨人あり、山の洞穴に住み着いては、只管に神との交信を図ろうとしていた過去がある。故に、山麓の村人の中には、先代の巫女と数える程しか会ったことがない者も少なくはない。  そんな先代の巫女がある日ふらりと村の一つに現れて、「そこの娘が次の巫女じゃ」と言って村人を驚かせた。  元より村人達は土地神を敬い奉っていた過去はない。  村人達も先代の巫女のことを、始めの内は汚い老婆だ山姥(やまんば)だのと呼んで、躾の出しに使う有り様で、この土地では何を祀っているのかさえ忘れ去っていたが、荒神が棲むことだけは辛うじて言い伝えにも残っており、次第に先代の巫女の言葉に従う村人達が山神信仰を始めるようになった。しかし貧しい村では大した事も出来はしない。  社が襤褸小屋を僅かに改修しただけの粗末な出来だったのはその所為でもある。  数年の間に頻発した山崩れと不作の影響で、村人達は心身共に疲弊していた。  それ故に巫女は、皆の為になるのなら、と、先代から巫女の役を引き継ぎ、教えられた作法をなぞり、山の神を祀る日々を過ごしていた。  巫女は今日も今日とて薪を組み、麻の火口を置き、火打石を鳴らしては、祈祷の為の火を灯す。細く揺らぐ煙に瞳を潤ます巫女。  丸めた背をしゃんと伸ばし、瞳を閉じて柏手(かしわで)を三つ、再び開かれる瞳、巫女の表情(かお)から幼さが消え、緩急著しく大麻(おおぬさ)を振るう様、大凡(おおよそ)社に見えぬ襤褸小屋に、幽玄の間が降りてくる。 「()(ところ)(はら)ひ清めて(しまし)しの(あいだ)斎庭(ゆには)(いは)(さだ)めて(まつ)()(まつ)る。()()くも(あや)(かしこ)瀧登之氷雨毘売(タキノボリノヒサメヒメ)大前(おほまへ)(かしこ)(かしこ)みも(もう)さく。(つね)瀧登之氷雨毘売(タキノボリノヒサメヒメ)(ひろ)(ふか)(いつく)しみを仰奉(あおきまつ)(かたじけな)(まつ)る。コイいは此度(こたび)(あや)(かしこ)瀧登之氷雨毘売(タキノボリノヒサメヒメ)より()神霊(みたま)()(たま)ひて(かしこ)(かしこ)(かたじけな)(まつ)(おが)(まつ)れば()土地(ところ)(つね)(やすら)かなる(とき)(とよ)(みのり)五穀(いつくさのたなつもの)(より)種種(くさぐさ)味物(ためつも)()土地(ところ)()まう者共(ものども)()(たま)へ」  抑揚豊かに巫女の声が社に広がり、薪から立ち昇る紅蓮の炎はその色を一層深める。()()が弾け巫女の頬を掠めるが、巫女は怯むことなく、時折薪を手に取り放り投げ、その度に無数の火の粉が生まれ舞い、儚く虚空へ消えて行く。  積まれた薪が消える頃には、太陽は空高く、燦然と日輪を放ち山の木々を紅く染めていた。  巫女は覚束無(おぼつかな)い足取りで社から出ては、小屋の水瓶まで歩き、余命幾許もない病人の如き手付きで柄杓を取ると、黙々と水を飲み始めた。  コクコクと喉を鳴らしては、ほう、と、息を吐き、蕩けた表情(かお)で虚空を眺める。滴り落ちる汗が陽の光に煌めき、巫女の装束に吸われ、濡れ布巾もかくやと言った濡れ具合。 「今日は随分と日照りが良いですね。いつもなら山に雲が掛かりますのに。これもひとえに瀧登之氷雨毘売の神業(みわざ)に違いありません」  巫女は神棚に奉る蛇の脱け殻に平伏するより他にない。  ――背後に人の気配を感じるまでは。 「人の子とは全く面白いことを考えるものじゃ。我が日の光を如何にかしたと? 全く、あれは天照大御神(アマテラスノオオミカミ)の領分じゃてな。我では如何にも出来ぬよ」 「え――、あっ貴女様はっ」  振り向き見る巫女は、女の姿を見るや否や、床に額を打ち付ける勢いで、頭を垂れ伏して――「良い、(おもて)をあげい」。それを制する女の声。しかし巫女は平に平に御容赦をとばかりに丸くなったまま動こうとはしない。 「そんなに(かしこ)まるでない。神として祀られているが、我は大神として名を連ねる程、上等な神格を持ち合わせてはおらぬよ」  女は穏やかな声で、ともすれば些か寂し気な微笑みで巫女に寄り、汗でしっとりと濡れるその髪を櫛る。黒く染めた絹糸を出来を検分する染師の目で愛でる。 「一房(ひとふさ)」 「はい?」 「いや、独り言じゃ。それよりも面をあげい」  女は片手を巫女の顎にやると、そっと持ち上げて、戸惑いと羞恥で僅かに揺れる巫女の唇を、そっと、指でなぞる。  昼だと言うのに女の()っとした色香に、彷徨う巫女の視線は囚われて、何も言えずに為すが侭、女の齎す感覚に身を委ねる他はない。 「斯様な姿になるまで我を奉るとは……なんとも可憐(いぢら)しいの」  巫女にとって神を祈り奉ることは当然のこと――であるはずなのに、女は歓喜と哀愁を綯交(ないま)ぜにした微笑みを返す。 「お主は些か真面目過ぎるようじゃの。もそっと力を抜いて良い。どうせ此処(ここ)には我等二人だけしか居(お)らぬのじゃからの」 「でっですが瀧登之氷雨毘売様――」 「それじゃ、その長ったらしい名で一々我を呼ばずとも良い。人の子が勝手に我を――、その斯様に面倒な名で呼んでいただけじゃてな」 「ではなんとお呼びすれば?」  女、暫時間を置きて、口にするのは真の名か。 「ふむ、九十九(ツクモ)で良いかの」 「ツクモ様、ですね。承りました」 「様等と大層なものを付けずとも良い」 「その様な畏れ多い事、私如きにはとてもとても」  巫女は伏して許しを請おうとするが、女の手によりそれも叶わず。巫女はせめてもと瞑目するが、女の様子が如何にも可笑しい。ふんすと息が荒いのだ。  然りとて畏敬の念が心に満ち、瞳を閉じた巫女には、女の様相が変じた事など知る由もない。元より原因は巫女にある。  護摩業を終えたばかりの巫女の装束は汗みどろ、頬に朱差したりて、加えて雛鳥の如き姿勢。恋慕に耽溺した乙女が接吻を乞うが如き様に、女は思わず「うまそうじゃ」、と囁く。  先程と違う女の雰囲気に、眼をうっすらと開く巫女。その瞳に映るは深紅の綾竹にも似た長き舌。口からつるりと滑り()で、笑みに歪む女の上の唇を躍り撫でる。 「蛇……」 「左様、くちなわじゃ。荒ぶる神として畏れられ、祀られた……の」  巫女、何かを悟り、瞳をはっきりと開いては、「私はツクモ様に仕える巫女。であればこの身、髪の毛一本まで、全てはツクモ様の物で御座います」と言って再び瞳を閉じた。そこにたじろぎは些かも見られない。何処か安らかな気すら漂わせている。  この巫女の竹を割る様にも似た物言いに、見るに忍びないとばかりに女は首を振ると、巫女の体に腕を回し、稚児をあやす手付きで頭を撫でる。 「言ったであろう。我はお主を取って喰ったりはせぬ」
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