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優はその日も、仕事が終わるとすぐに帰路に着いた。
島の道路はそのほとんどが舗装されていない。
じゃりじゃりと土や砂利の混じった道を踏みしめて帰ること一時間。
少し坂を登ったあたりに、優の家はあった。
外観は、昔ながらの日本家屋。その見た目の通り、築年数は100年に近かった。
家に着いた優は、台所にいると思われる母へ帰宅の声を投げると、そのまま二階へ上がる。
橙色の夕陽が廊下を細く照らしていた。
「哲」
優は障子の向こうにいるであろう…いや、障子の向こうにいる、と確信している弟・哲の名前を呼んだ。
しかし中から返事はない。だが、しんと静まり返った空気の中に、かすかに物音が混じる。
優は障子を開いた。
模様の入った磨りガラス。まとまりなくヒラヒラと風に揺れるカーテン。畳の香り。ほとんど使われていない学習机。
それらがいっぺんに優の目に飛び込んでくる。
中央にはこちらに背を向けた哲がいた。優が後ろ手で障子を閉めると、哲がちらりと優を振り返る。その目は憎しみに溢れていた。
「そんな怖い顔するなよ」
優は苦笑しながら哲に近寄った。哲は伸びてくる優の手を避けようとして、やめた。優はその事に気付きながらも、何も言わなかった。
優の手は柔らかく哲の頬を包み込んだ。哲は口を真一文字に結んだまま、ただ優を睨みつける。
哲の鋭い視線を受けてもなお、優はひるまなかった。むしろ微笑みを深くした優は、そのまま哲に顔を近づけ、唇を重ねた。
「…また悪さしたんだって?」
短い口付けを済ませた優は、黙り込んだままの哲に囁いた。
優は続ける。
「わかってるよ。哲。俺はね、わかってる。お前のことを誰よりわかってる。」
優は哲の耳を軽く噛んだ。哲が息を呑む。
『やだ』
哲の唇が声なく意思を形にした。
けれど優はやめない。
「お前は、俺に『こう』されるストレスで他の子を虐めたりしているんだろ?それだけじゃない。時々、自傷行為をしているのも知ってる。だけどね、哲。俺はやめないし、間違ってない。間違ってるのはお前の方」
呪う。優は哲の目を真っ直ぐに見ながら、呪詛を口にした。
「兄弟でこんな事するなんて変だって思うんだろ?でも違う。植木さん家だって、ほかの家だって、同じようなことをしてる。変なんてことないんだよ。お前もいつか慣れる」
優がポンと哲の肩に両手を置いた瞬間、哲がその手を強く払った。そして叫ぶ。
「俺は被害者だ!!!!」
哲はウウウと低く唸りそうなほど肩を上げ、優に言葉を叩きつけた。
優はポカンと口を開けたあと、端正な顔をグシャリと歪めて笑った。
「被害者?それが間違ってるって言ってるんだよ。あれだけ気持ちよくなっておきながら、」
哲は優を力一杯、突き飛ばした。けれど体格差のある二人の力関係は明らかで、優は軽く後ろに体を傾けただけだった。逆に、哲の方が後ろに下がったくらいだ。
「…いつか母さんか父さん、いや、誰かが助けてくれると思ってるんだろ?残念だったな。ここにお前を助けてくれる人はひとりもいないよ」
何度聞いた言葉だろう。誰も助けてくれない。何も変わらない。哲はこの言葉を聞くたびに、絶望に打ちのめされて、目に涙を浮かべた。だが、絶対に涙はこぼさなかった。ギリギリで耐えて、耐えて、耐えて、歯を食いしばって。
「お前は無力だから」
哲は天井を仰いだ。
「だから俺がお前を守ってやってるんだよ。」
動けなくなってしまった哲に、優は追い討ちをかけた。呪っている。哲が自分から逃げ出さないように。しかしそこに憎しみや恨みなどはない。むしろあるのは深い深い、沼地のようなドロドロとした愛情だけ。
優は哲の腕をとって部屋を出た。向かったのは数年前に防音仕様にリフォームした、優の部屋だった。受験勉強に集中したい、と親に頼み、綺麗にしてもらった部屋だった。哲を連れて部屋に入った優は、分厚い木の扉を静かに閉じた。
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