胸にふるるもの

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「冬馬さん。今日は本当に有難うございました」 「なに、こっちも付き合ってもらって悪かったね」 戸の閉まった秋栖屋の前で、二人は別れを惜しんでいた。長く伸びる影の手は、仲睦まじく繋がれている。 「もうしばらく、ここに留まりはしないのですか」 「すまないが、俺ァ気ままな旅人だ。まだここを家にする気にゃならないね」 「そう、ですか・・・残念です」 「今生の別れでもあるめぇ。こうして二人、生きてさえいればまた会えるさ」 「きっと、きっとまたこの町に来て下さいね」 「あぁ。その時にゃ、あんたのイイ人、紹介してくれよ」 繋がれていた影の手がプツリと切れた。そして冬馬は、秋栖屋に背を向ける。七雄もフサフサの尾を振りながら、冬馬の先を走り出した。 「冬馬さん!」 「なんでい。まだ何かあんのかい」 「ひとつ、頼みごとをしても良いですか」 一度別れたはずの蓮が、再び冬馬に追いつく。蓮より少し背の高い冬馬は、クイと顎を引いて蓮を見下ろした。すると、蓮は顔を背けたまま、小声で『頼みごと』を口にした。 「もうひとつ、もうひとつだけあなたに教えて欲しい事があります」 「言ってみな」 「ぼ、ぼくに・・・その、せ、接吻を・・・教えて、くださいませんか」 蓮の顔は、茶が沸かせそうなくらい真っ赤に染まっていた。 冬馬は蓮の言葉を聞いてキョトンと呆けたあと、アッハッハと大きな声で笑い出した。 「こりゃァ驚きだ。アンタの口からそんな言葉が出てくるたァ思わなかったね」 「で、でも、ご、ごめんなさい、ごめんなさい、やっぱりいいです、おかしいですよね、男同士なんて、ご、ごめ、」 「いい、いい。ほら、ちょいと目を瞑ってごらん」 恥ずかしさのあまり逃げ出そうとする蓮の腕を冬馬はガッチリと掴み、そして引き寄せた。山の中でそうあったように、蓮は冬馬に抱き込まれる。 『あぁ、恥ずかしい。ぼくはなんて事を言ってしまったんだろう。』後悔を見せる蓮だったが、冬馬は構わず彼の顎を指で押し上げ、そして唇を落とした。 数秒間の触れ合い。舌も入れず、ただ合わさるだけの行為。冬馬がゆっくりと顔を離すと同時、蓮は「ぷはぁ」と止めていた息を吐き出した。 「はは、息を止めてたのかい」 「だって、塞がれていたんだもの」 「こういう時は、鼻ですりゃいいのさ」 そう言って、冬馬は鼻の穴をフンと大きくした。その様子が可笑しくて、蓮がクスリと笑みを溢す。 「いいかい、蓮さん。今日のことは忘れないでくれよ」 「絶対に忘れませんよ。大事な大事な思い出だもの」 「そうかい、ならいい。俺もアンタのこと、忘れないよ」 ――番犬札の噂も人々の中から消えた頃、蓮のいる町に大きな黒い犬を連れた男がやってくる。 それが冬馬だったのか否かは、秋栖屋の跡取りに聞けば分かる事だろう。
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