胸にふるるもの

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翌日。 今日も朝から爽やかな風が吹いていた。 蓮が普段通りに朝の支度をしていると、その細い背中に「やぁ」と呼びかけがあった。 聞き覚えのない声を不思議に思って蓮が振り返ると、昨日会ったばかりの絵師・冬馬がヒラヒラと手を振っていた。 「朝からご苦労なこって。毎日こうなのかい」 「仕事ですから。それよりも番犬さん、店が開くにはまだ時間がありますよ」 「番犬さんってなんだい」 「いえ、お名前を聞いていなかったので」 「俺ァ冬馬ってんだ。兄さん、これも何かの縁だ。あんたの名前も教えとくれよ」 「ぼくは蓮、秋栖蓮と言います」 「いい名だ。それでな、蓮さん。今日はアンタに用があってきたんだ」 「ぼくに?」 通りに出した足休め用の長椅子にドカリと座った冬馬は、隣をトントンと叩き、蓮にも席を勧めた。蓮は少し躊躇いながらも、結局、冬馬の傍に立ち、ぼうっと七雄を見つめた。 「ぼくに何の用でしょう」 「そう警戒しなさんな。東の山がそろそろ色づく頃だから、紅葉狩りでもどうかと思ってよ」 「お誘いは嬉しいのですが、店が・・・」 会って日も浅い冬馬の誘い。蓮にとっては意図の分からない誘いだった。 怪しいとまでは言わないが、飛びつく理由も思いつかない。蓮が「申し訳ない」と表情を作りながら断りと入れようとした時、店の奥からニコニコ顔の弥太郎がひょいと顔を出した。 「坊ちゃん、いいじゃないですか。東の山、行った事ないでしょう?」 「聞いていたんですか」 「絵師の兄さん、蓮さんは見ての通り真面目なお方だ。ちょっと遊びって奴を教えてやっちゃくれませんかね」 「弥太郎さん!」 余計な一言に蓮が怒ると、弥太郎はアハハと無邪気に笑いながら再び店の奥に引っ込んだ。 一方で、冬馬はクツクツと笑いを押し殺していた。冬馬には、蓮と弥太郎のやり取りが、仲の良い兄弟のように見えたのだ。 「アンタの兄貴もあぁ言ってるんだ。たまには冒険してみなよ」 「兄じゃありません!それにぼくは、昨日もお休みを頂いたんだ。そう毎日遊び呆けるわけにもいきません」 「何も、明日も明後日も遊べって言ってるわけじゃあるめぇよ。それによ、蓮さん。季節折々の景色を見て、目を肥やしておくのも跡継ぎの役目なんじゃねぇのかい」 冬馬の的を得た一言に、蓮はグッと息を飲んだ。冬馬はそれを見て、もう一押しだと確信する。 「蓮さん。七雄もアンタと遊びたいってよ」 冬馬が「ほれ、」と七雄をけしかける。七雄も七雄で、主人の気持ちを汲み取ったのか、ワンワンと楽しげに吠えながら蓮の周りをグルグルと回った。パサパサと尻尾が揺れるたび、蓮の足がくすぐられる。 ――それから、ちょっと間を置いて。観念した蓮は、歩き出した冬馬の後ろに続いた。 「紅葉狩りには、ちょいと気が早かったかね」 冬馬が溢した通り、東の山に聳える木々はまだ青さを残していた。けれど冬馬の隣を歩む蓮の顔は明るく、応える声も弾んでいる。 「気持ちがいいですねぇ」 「そう言ってもらえると俺も救われるってもんだ」 「店の人たちにも見せてあげたいなぁ」 「いいねェ。今度、皆で来れば」 そこで、二人の頭上からヒラリと一枚の葉が舞い降りた。それはそのまま、ふわりと蓮の頭に乗る。冬馬は「お、」と声を漏らし、指先を葉に伸ばした。 「見事だねい」 「あぁ、ありがとう」 冬馬は指で抓んだソレをふぅと吐息で吹き飛ばした。二人して歩みを止め、葉の行き先を見守る。 そうやって穏やかな時を過ごしていると、七雄が「ぉおん」と情けなく鳴いた。 「七雄が足を休めたいってよ」 「彼の言う事が分かるのですか?」 「いんや、俺のアテ勘さ」 七雄の頭をわしゃわしゃと撫でてやると、彼はサッと走り出し、大きな石の横にチョコンと座り込んだ。ここへ腰掛けろ、という事だろうか。二人はクスクス笑いを溢しながら、七雄の薦め通りそこへ並んで腰掛けた。 「あんた、イイ人はいないのかね」 「いきなりなんですか」 「弥太郎といったか。奉公人でも古そうな奴にあんだけ心配されてんじゃ、アッチの方もそこそこなのかと思ってね」 そう言って、冬馬は小指を立ててニヤリと笑った。蓮は冬馬の言わんとする事が分かり、顔を真っ赤にする。そして小声で「やめてくださいよ」と制した。 「そういう話は、ちょっと」 「なんでい、初心だねい。男二人しかいねぇんだ、そういう話の一つや二つ、したって構わねェだろ」 「まだ昼間です」 「昼間っからこんな話して、誰が咎めるってんだよ」 耳まで紅色に染めてムッと口を曲げる蓮の姿は真面目そのもの。冬馬はそんな蓮の様子が可笑しくてケラケラ笑った。 「アンタだって恋くらい、したことあるだろう?」 「・・・」 「・・・もしかしなくとも、」 「・・・ないですよ」 蓮は「勘弁してください」と言うと、プイとそっぽを向いてしまった。 冬馬は内心で「そこまで怒るこたァねぇだろ」と思いつつも、折角の散歩道中、仲良くやりたいと思い、一言「あいあい、すまなかったよ」と謝罪した。 「何も、謝る事はないですよ」 「そう言うんだったらコッチ向きな」 「嫌です。顔がほてっているんだもの」 「大丈夫大丈夫、笑ったりしない」 「さっき笑っていたじゃないですか」 微かな不穏さを感じ取ったのか、七雄がヒョイと腰を上げ、俯く蓮の顔を覗きこんだ。 七雄の心配そうな様子を見ていると、意地を張っているのが馬鹿らしくなる。蓮はハァと溜息を一つ吐き出して、それからフッと頬を緩ませた。 「ここだけの話です。ぼくは、人に触れるのが怖いんです」 「なんで怖いと思うんだい」 「それはぼくにも分かりません。けれど、自分から手を伸ばそうとすればするほど、体が重くなるのですよ」 なにも、蓮は人を好いた事がないわけではない。 店の都合上、客には女性が多く、毎日店に出ている蓮の心に色を残す異性も居た。 だが、声を掛けようとすれば喉は詰まり、手を握りたいと思えば腰が引けた。蓮は自分でも、何故だろうと首を傾げ、この泥沼から抜け出そうと何度となく己に挑戦してみた。 しかし結果はこの通り。今の今まで逢世を重ねる相手もなく、一人寂しく仕事に精を出す日々。 同性にするように、笑顔で話しかければいいだけなのに。不満はなくとも充実感が足りない生活に、嫌気が差してないといえば嘘だ。 蓮の悩みを聞いた冬馬はフムフムと数回頷くと、心得たりとばかりに、ニヤリと笑みを浮かべた。 「そりゃあんた、単純さ」 「へ?」 「蓮さん。アンタはただ、やり方ってェのを知らねぇだけさ」 冬馬は一歩、蓮に寄った。蓮の顔に不安が広がる。そうして暫く二人が見詰め合っていると、ふと、蓮の手に温もりが重なった。 「あ、」 ぎゅ、と握りこまれる手のひら。冬馬の手が、蓮の手を握っていた。人肌の温度が優しく伝わってくる。けれど時を過ぎるごとに、蓮の手のひらはじっとりと汗をかき始めてしまった。 「あの、冬馬さん、」 「そう構えなくとも大丈夫、大丈夫だ。何もしねェから」 「で、でも、」 「人と人が触れ合うってぇのは、良い事なんだ。寂しさも、哀しさも、癒してくれる。怖がったり、怯えたりするようなことじゃねぇのさ」 「でも、手、手に汗が・・・」 汗の感触に恥ずかしさを覚えた蓮が、冬馬から離れようとする。だが冬馬は逆に、空いた手で蓮の体を抱き寄せた。 「こうやって、誰かに抱きしめてもらうのも久しぶりなんだろ?そのうち慣れるさ。汗なんてモン、気にするこたァねぇ」 蓮が抵抗せずに黙っていると、冬馬の腕がグイと締まり、蓮の顔が冬馬の胸板に押し付けられた。 すると、耳に入ってくる冬馬の鼓動。トクン、トクンと波打つそれは、子守唄のように蓮の心を撫で付けた。 「どうでい。こういうのも悪かねェだろ」 「・・・えぇ、そうですね」 「最初っから上手に、人を抱きしめられる奴ァいねぇ。誰もが皆、こうやって誰かに優しくされて、初めて自分でも出来るようになるんだい」 「自分でも・・・」 「そう。次はアンタの番さ。いつかイイ人を見つけたら、こうして暖かくしてやんねえ。きっと、喜ぶさ」 「・・・ありがとう・・・冬馬さん」 互いに伝わる、互いの鼓動。 風で擦れる葉の音が、二人を祝福しているようだった。
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