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Ⅳ
昼休みに、食堂のカウンターで新聞を読んでいた陽翔は、ふと眉を上げた。
知っている名を見つけたのだ。
青崎朗。
北海道行きフェリーから転落して行方不明。
指先でその名を静かになぞった。
あの航路は、陽翔の故郷の沖を通っている。
朗も知っていてフェリーに乗ったのだろう。
朗は、甲板に立って、深い海に思いをはせたのか。月の美しい夜だったにちがいない。海は月の光で銀にきらめく。すると波間に、ほの白いものが現れる。
朗は目をこらす。
あの少女が、こちらを見つめている。ほっそりとした白い両肩のまわりで、海よりも暗い色の髪が波にゆれる。
彼女は微笑み、しなやかな手を差しのべる。
朗は身を乗り出す。
そして、海に呑み込まれたのだ。
海霊が見せた幻だとは気づかずに。
祖父は若いころに一度だけ、海に帰る海霊を見た。
青緑の鱗にびっしりと覆われた、巨大な鮫もどきの姿だったという。身体から太く突き出た両手足は鋭い爪を持ち、ひきずる長い尾には鋼のような鰭がついていた。
陸に上がった時にだけ、彼らは人間の好む美しい女に変化する。
海霊の夫となった者は、海霊が産んだ卵が孵る時期になると、必ず海に引き寄せられるのだ。
生まれた海霊がはじめて口にするものは、自分の父親の肉だから。
長い年月、陽翔の浜は海の守りを受けてきた。二年半に一度、一人の若者と引きかえに。
さもなければ荒ぶる海で、幾人もの男たちが命を落としていたことだろう。嵐や津波に襲われて、あの小さな美しい浜は消えていたことだろう。
海霊が、同じような血を好まなくなったのは幸いだった。浜を離れた陽翔たちは、手頃な若者を連れ帰りさえすればいい。浜に後継ぎが絶え、静かな終焉を迎える時まで。
「海童くん」
陽翔は、はっと顔を上げた。
「ああ、中澤さん」
「ここに来てたのか」
「中澤さんが美味しいって教えてくれた店ですからね。お先してました」
中澤は陽翔が転職した会社で同じ部署にいる。陽翔より三つほど年上の人の良さそうな青年だ。
中澤は陽翔の隣に腰をおろした。
「何を頼んだの?」
「海鮮丼」
「いいね。おれもそうしよう」
おしぼりで手を拭きながら、
「どう、仕事は慣れた?」
「ええ」
陽翔は新聞をかたわらに放り投げ、にっこりと笑った。
「おかげさまで」
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