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Ⅰ
「こんどの休み、空いてます? 先輩」
持ち前の人なつっこい笑顔を浮かべて海童陽翔が言った。
「ぼくの実家に行きませんか」
「実家?」
「ぼく、会社勤めをしてから一度も帰ってないんです。このお盆にも旅行に行っちゃったし」
陽翔は会社の二年後輩だ。世の中不景気のこともあって昨年は朗のいる設計課に新人はおらず、今年入った陽翔が唯一の年下。頼ってくる姿が可愛くて、なにくれとなく面倒をみてやっていた。
「たまに帰るんじゃ、親御さんも水入らずがいいだろうに」
「いろいろ言われるのが面倒なんですよ。一緒に来てもらえればありがたいな。海のものも、たくさん食べられますよ」
「海の方だっけ」
「そう。目の前は太平洋」
「へえ」
山育ちのせいか、朗は昔から海が好きだ。ついつい陽翔の誘いに乗って、彼の帰省につきあったのは八月最後の週末だった。
もよりの地方都市からバスは一日に三本しかないからと、陽翔はレンタカーを借りた。やたらに曲がりくねったリアス海岸の県道を行く。びっしりと繁った杉や松の木の間から、晩夏の少し寂しげな海のきらめきが覗いては消えた。
峠近くで県道をそれ、灌木の多い山道を下った。つづら折りの道路をどこまで行くのかと思っていると突然ぽっかりと前方が開け、海が見えた。
道の突き当たりの平らな砂利の空き地には、何台もの車が並んでいた。陽翔も車を止め、
「ここから先は車が入らないんです。行きましょうか」
小中学校までスクールバスで三十分、高校からは下宿生活と陽翔から聞いてはいたが、なるほどこんな所を僻地というのだろう。
車を降りると、蝉の鳴き声が耳を打った。陽射しは強かったが、浜風は涼しく心地よかった。
集落への坂道は階段まじりの急勾配。海は真正面だ。入り組んだ海岸線が凪いだ湾に美しい影を落としている。高く澄んだ青空の下で鴎が旋回し、時々鳴き声をあげていた。
濃い潮の匂いが感じられる。
朗はちょっと立ち止まって深呼吸した。陽翔がかたわらで満足げな笑みを浮かべた。
道が緩やかになったあたりから家が見え始めた。どの家も背後はすぐ山で、畑を兼ねた広い庭があった。この時刻、人影はなく、背の高いひまわりだけが風に揺れていた。
坂道を下りきった所が陽翔の実家だ。旧家然とした大きな門がまえの家で、陽翔によく似た可愛らしい母親が嬉しそうに出迎えてくれた。
「まあまあ、いらっしゃいませ。陽翔がいつもお世話になって」
「突然お邪魔してすみません」
「とんでもない。ゆっくりなさって下さいねえ。なにもありませんけどねえ」
二階の部屋に通されて荷物を置いた。開け放った窓から、波の音が聞こえる。庭木の向こうに桟橋が見えた。漁船が数艘、のどかに舳先を並べていた。今日は漁が休みなのか。
桟橋まわりの護岸が切れたあたりの両側は、岩がむきだしの磯浜になっていて、深い入り江を作っていた。上の方から見下ろした時には陸の一部だと思っていた出っ張りが、入り江の口にある小島だということがその時にわかった。陸地との間に、細長い橋が架けられていた。
「あの島にも人が住んでるの?」
「お社があるだけですよ」
冷えたビールと枝豆を運んで来た陽翔は、にこりと笑った。
「今晩行きましょう。ちょうど月祭りなんです。二年半に一度の祭りなんで、今日はみんな沖にも出ずにそわそわしていますよ」
「二年半とは中途半端だな」
「ひと月に二回満月があるのは、ほぼ二年半に一度ですからね」
陽翔は説明してくれた。
「いわゆる、ブルームーン。祭りは、二度目の満月の時」
「聞いたことのない祭りだな」
「でしょうね。たぶんこの浜だけのものだと思います」
「無形文化財とか」
「まさか。地味な祭りなんですよ。みんなで島に集まって海霊さまをお招きするんです。豊漁と海の安全を祈願するためにね。海霊さまは二の月の時に現れるから」
「神さまとは違うのか」
朗はコップを手に、首をかしげた。
「海の霊? 海で死んだ人たちの霊?」
「うーん、それとも違うな。海の精霊って言えばいいのかな」
陽翔は色のいい枝豆を手の中でもてあそびながら言った。
「浜の守り神です。おかげで、この浜の者が海で死ぬことはありません。不漁になったこともない」
「すごい御利益だな」
「でしょう」
陽翔はこくりと頷いて、枝豆を口の中に放り込んだ。
「だから祭りは続いているわけですよ」
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