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Ⅱ
陽翔は一人息子で、家族は祖父母と両親だ。祭りの準備をしていた元気の良い祖父と父親も帰ってきて、早めの夕食がはじまった。
殻つきの雲丹や帆立の刺身、地魚の煮付けなどがたっぷりと。朗にとってはめったに味わえないご馳走だった。だいぶ酒も入って良い気分になったところで、陽翔に連れられて島に向かった。
二人は、磯の上の小道を辿った。陸側の木には今日のためにつけたらしい電球つきのコードが架けられていて、橋に続いている。暮れなずんできた海辺に、橙色の明かりがにじむようだ。
「足下、大丈夫ですか、先輩」
「ああ」
「すみません。うちのじいちゃんは飲ませたがりで、どんどんお酌しちゃうんですよ」
「大丈夫だ。酔い覚ましにはちょうどいい散歩だよ」
橋は両手を伸ばした幅しかない古い木造だった。歩くとぎしぎし音を立て、板の隙間から橋脚を洗う暗い波が見えた。
島に渡り、松林の斜面を少し登ると平たい空き地が広がっている。社は外洋にせり出した崖の上にあった。人の背丈ほどしかない小さなものだが、四方に竹の柱を建て、新しいしめ縄を回していた。
ところどころに照明が置かれた空き地の、中央あたりに櫓が組まれていた。櫓の上には太鼓を持った法被姿の老人がひとり。
昼間のがらんとした集落とはうって変わって、なかなかの人数が集まっていた。陽翔は誰彼となく挨拶をかわした。この浜ではみなが知り合いなのだろう。陽翔の連れの朗を見て、彼らは感じの良い笑みを浮かべた。
中高年だけの集落と思っていたが、こざっぱりした若者の姿もちらほら見受けられた。この祭りのために帰省したのかもしれない。
集落の人々にとっては、子供のころからの大切な祭りなのだ。街に出た若者たちはこの浜を思い愛しみ、祭りになると帰ってくるのだろう。おそらく、陽翔も。
社の背後にあるのは空と海だけだ。濃い藍色の空は星々を散らし、暗い海とさだかではない境界をつくっている。
やがて、そのあわいに、白々とした光が溢れはじめた。
広場のざわめきが一瞬鎮まった。みなそろって海に目を向けた。
月が昇る。
満月が海の中央にしずしずと姿をみせた。
海に映る光は、はじめは月のまわりに満ち、月が昇るにつれて煌めく白銀の道を作った。
まっすぐに社の方に伸びてくる。
なるほど、海の霊が渡るにはふさわしい道だ。
朗はほうと息を吐き出した。これを見せてもらっただけでも、陽翔に感謝したい気分だ。スマートフォンはポケットにあったが、自分の目でじかに見ておきたかった。レンズの中などにはおさまりきれない美しい光景だった。
トントンと、小刻みな太鼓の音が聞こえはじめた。動きを止めていた人々が、ゆらりと動き出した。
男も女もみな手のひらにやわらかなしなをつくって、月を招くような動作繰り返している。両手を上げ下げし、足はこびも軽やかに彼らは踊り出しているのだ。
「これは?」
朗は驚いて陽翔に訊ねた。
「月踊りです。盆踊りみたいでしょ」
陽翔もまた、慣れた手振りで踊っている。
「先輩もやってみてください。簡単ですから」
いつのまにか照明は消えていた。しかし、水平線を離れた月はいっそう耀きをまし、海と島とを明るませていた。
ひらひらとかざされた幾本もの手は、月明かりに白く浮かび、海の底のくらげか海藻を思わせた。
太鼓だけの単調な拍子に会わせて、男も女も、老人も若者も、子供たちまでが嬉しげに身体を動かしている。
朗も面白くなって、見よう見まねでやってみた。両手を上にかざして右左、胸元に下ろして右左。腰を少しかがめ、足は二歩進んで一歩さがる。もっとも、どこに移動するのも自由らしい。人々は、しだいに入り乱れてきた。
陽翔の姿が見えなくなった。探そうとしているうち、誰かとぶつかった。あやまろうとして、不覚にも目を見開いた。
そこにいたのは一人の少女だ。長い黒髪が卵形の美しい顔をふちどっていた。目は黒々と大きく、細い鼻梁、ふっくらとした形の良い唇。その唇が笑みを浮かべた。朗を見つめたまま、まるで舞を舞うかのように薄い袖無しのワンピースから伸びた両手をくねらせた。
この浜の少女なのだろうか、それとも街から帰省して?
朗は彼女から目を離すことができなかった。陽翔のことも、月祭りのことも忘れ、ただ彼女のしなやかな肢体に見とれていた。
少女の足踏みにあわせて朗は動いた。彼女の微笑みに笑みをかえした。
少女は指先をひらめかせて朗の手をとった。
朗はその冷たく滑らかな手を握りしめた。少女の髪がさらりと風になびき、朗の頬に触れた。朗は目眩むような戦きをおぼえた。
朗の手をとったまま、少女は静かに空き地を横切った。松林を抜け、急な磯の斜面をためらいもなく下りた。朗は何度か転びかけたが、痛みも感じなかった。
少女は、岩陰に入り込んだ狭い砂地に朗を導いた。
朗を見上げる少女の目は、黒々と潤んでいた。朗の思考は、もうすでに停止している。
月は頭上で皎々と耀き、海は銀色にさざ波だっていた。遠くでまだ、太鼓の音が鳴っていた。
少女は、砂地を褥に横たわった。
朗は倒れ込むようにして、彼女の細い身体を抱きしめた。
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