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Ⅲ
はっと目が覚めた時、波が半身を洗っていた。
朗はあわてて身を起こした。
太陽はすでに昇っていた。朝焼けの最後の雲のひとひらが風に乗って消えようとしている。満ちてきた波は陽の光を弾いてきらめきたち、砂地の半分を消し去っていた。
昨晩のことを思い出そうとした。記憶はおぼろだ。太鼓の響き、踊る人々、微笑む少女のえもいえず美しい顔……。
彼女の姿はなかった。
朗はぞくりとした。彼女はどこに行った?。
「先輩!」
頭上で声がした。
「よかった! そこにいるんですね」
岩場の上から陽翔が見下ろしていた。
「怪我してませんか? 一人で上って来れますか?」
「ああ」
朗は両手で顔をこすり、呆けたようにつぶやいた。
「いま、行くよ」
松林までよじ登った朗を、陽翔はささえるように立ち上がらせた。
「急にいなくなるからびっくりしましたよ。じいちゃんが無理に飲ませるからいけないんだ。海に落ちたんじゃないかと思って、心配しました、本当に」
「酔ってたのかな」
「だいぶ」
陽翔は大きく頷いた。
「おまけに、月踊りまでして身体を動かしましたからね」
「すまなかった」
「悪いのはぼくたちですよ。さあ、行きましょう」
「夕べ」
朗は思わず訊ねた。
「十七八の女の子はいなかったか? きれいな子だ」
陽翔は首をかしげた。
「ぼくの知ってる限りではいませんね。でも、この浜以外の者も来てましたから。海霊さまだって」
「海霊さま?」
「海霊さまが陸に上がる時は、きれいな女の子の姿をとるそうですよ」
ぎょっとしたような朗を見つめ、陽翔は微笑んだ。
「その子がなにか?」
「いや」
朗は大きくかぶりをふった。まだ頭がぼんやりしている。
前後不覚になるまで酔っていたのだ。自分は一人でここまで下りてきて、眠りこけてしまったのだろうか。
「先輩」
陽翔は、いたずらっぽく朗の顔をのぞき込んだ。
「海霊さまに会ったんじゃないでしょうね」
海の精霊。
「まさか」
彼女は夢か、幻だったのだ。
しかし、少女の冷たくしっとりとした肌の感触は、はっきりと思い起こすことができた。唇だけが熱かった。あの、のけぞる白い喉……。
朗は身震いした。
「びしょ濡れですね」
陽翔が気遣わしげに言った。
「風呂に入って少し休んで下さい。今日中に帰ればいいんですから」
残暑もようやくおさまったころ、陽翔が会社を辞めた。
正直、ほっとした。
彼の実家から帰って以来、朗は陽翔を極力さけていた。陽翔も心得ているようだった。
「海霊さまにも寿命があるそうですよ」
帰りの車の中、朗が降りるまぎわに陽翔は言ったのだ。
「何人もの海霊さまがいるんですが、女ばかり。子孫を増やすには男がいる。なので、彼女らはかわるがわるぼくたちの浜にやって来ます。月祭りの夜に」
朗は、息を止めて陽翔を見つめた。
「大昔からの盟約です。おかげでぼくたちの浜は守られています。大津波が来たって、人も家も流されることはなかった。ただ、しだいに血が濃くなってきましたからね。浜以外の人間が必要なんです」
「冗談だろう」
朗はようやくささやいた。陽翔は間をおき、声を出して笑った。
「もちろんですよ」
去っていく陽翔の車を見送りながら、朗は彼の言葉を反芻した。
浜以外の人間。
地元の者らしくない若い男も、確かに何人かいた。朗のように誘われて、月祭りに加わったということか。
海霊は、朗を選んだ。
まさか。
朗は同じ言葉をくりかえすしかなかった。
まさか。
陽翔がいなくなり、ようやくあの夜の出来事を忘れることができると思っていた。
しかし、ことあるごとに少女の顔を思い出す。
震える長い睫も、繊細な貝殻のような耳たぶも。
彼女が海霊?
だとすれば、海霊とは人魚のことなのかもしれない。月祭りの夜にだけ、美しい尾を華奢な人間の足に変えて磯辺に現れるのだ。
人魚は子供を──朗の子供を産む。陽の光が水面を透して碧くゆらめく海の中を、長い髪をひるがえして泳ぐ母子の人魚を夢想する。
また海に行きたくなっていた。
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