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ささやき声が聞こえた。空耳かときょろきょろとあたりを伺った。飴の光で見渡せる範囲に人の気配はない。弟だったのかと思ったが、彼は意識を失ったまま木の根に腰を預けている。
――まあるくて、あかいあめをくれ。
今度はさっきよりもはっきり聞こえた。しかも言葉が増えている。さわっと草木がわずかに揺れた。夏の夜気とはちがう、人の息吹のように生あたたかな風が吹いた。獣のような、そうでないような。とにかく恐ろしい怪異が近づいてくる気配にずくりと腹の底が寒くなる。
――かわいい、かわいいその子といっしょに、まるくてあかいあめをくれ。
歌うような軽やかな声。湿り気を帯びた生ぬるい風がまたしても頬をなでる。つつっと背中に冷たいものが垂れた。ぞわぞわと全身が粟だって呼吸が乱れる。全身から警報が出ている。一刻も早くここを去れ。去らねば……
「大樹! 大樹! ねえ、起きて! ここにいちゃいけない! ねえってば!」
さっきよりも強く揺さぶる。起きて。お願いだから起きて。必死に彼を揺さぶるのに、弟の頭は頼りなく揺れるだけで一向に目を覚ます気配がない。
何者かに意識を奪われているのではないか――
ふとそんな気がした。「あめをくれ」という声がまたした。最初のときよりもより明確に聞こえる。山のほうから風に乗って聞こえてきたはずだった声がどんどん距離を縮めてきているように感じた。急いで山のほうへと視線を走らせる。刹那、ひいっと喉の奥で悲鳴が貼りついた。
林の木々の合間から見える山の頂からひとつ、ふたつと石灯篭の火が消えている。わななくような身震いが起こった。それまで静寂に包まれていた世界が突如ざわざわと騒がしくなる。山からやってくる声に揺さぶり起こされたかのように夜が、闇が、息を潜めていたなにかが、目を覚ましたのだと感じた。
「大樹! ねえ、本当に起きてってば! 大樹!」
涙声になっていた。弟はどんなに声をかけても、揺さぶっても、ほほをはたいても目を開けてくれない。足元から絶望が這い登ってくる。ともすればあきらめてしまいたくなる気持ちを奮い立たせる。
泣き言を吐いている暇があったら頭を動かせ。体を動かせ。こうなっては彼を引きずって行くしかないではないか。よくよく見てみれば、火の消え方は思ったよりも早くない。小さな子供が一段ずつ、大事に下りてくるくらいの速度だ。
石段は九四六段。文字通り『苦しむ』数なのだ。何段か置きに設置された石段の火が完全に消え終わるまでにはまだ余裕がある。うまくいけば山の火がすべて消え終わるころに広場の近くまで引きずっていけるはずだ。途中で弟が起きてくれれば幸いだし、そうでなかったとしても広場まで行ければ守番も戻っているだろう。それに隆介もいるにちがいない。
そうと決まればこんなところでぐずぐずしてはいられない。わたしはひざ立ちになると、弟の背中が自分の真正面にくるように、彼の体の向きを変えた。それから脇に腕を差し込み、胸のところで腕を交差させる。弟の手首をつかむと自分の体を密着させて引き寄せた。そのまま体を持ち上げようと足に力を入れる。途端にずきりっとくじいた足首に電撃のような痛みが走った。足元も悪いため、踏ん張りがきかずによろめく。
――あめをくれ。
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