31人が本棚に入れています
本棚に追加
「でき……ないの」
震えが口元にまで及んでいた。ほほの筋肉が揺らいで、声がぶつぶつと途切れてしまう。振り返って切実に伝える。悪寒がとまらない。飴を握る指先の感覚が完全に麻痺している。
「どうしたらいいの、隆介。飴が離れて……くれないの……」
目頭が熱くなる。自分の身になってようやく理解した。弟は少年たちに「できない」と言った。渡したくなかったのではない。渡せなかったのだ。おそらく、母の友達も同じだったに違いない。離そうとすると自分の握っている手ごと、誰かに握りしめられているみたいになるのだ。
それを早口で説明すると、隆介が大きく目を見開いて駆け寄ってきた。必死になってわたしの手を開こうと試みても、強力接着剤で貼りついたかのように微塵も動かない。それどころか、どんどん指に力が入り、手のひらに爪が食い込んでいく。プツッと皮膚が切れた。滲みだす血がりんご飴の串を赤黒く濡らす。
「クソッ! 飴は後回しだ。とにかく逃げよう、広場まで! そうしたら大人がいる! そこまでいけばなんとかなすはずだ」
「うん」
痛みをこらえ、小走りになる隆介のあとを懸命についていく。広場まで。広場まで行けば、いろんな屋台がある。あめごいさんはきっとそっちに気を取られて飴のことも、弟のことも忘れてしまうだろう。広場には楽しいものがたくさんある。人もいっぱいいる。目移りして、わくわくしている間に、わたしたちは大人に助けを求めればいい。大丈夫。絶対になんとかなる。いや、なんとかしなければ。
背の高い草を踏み、高い根を越えて石灯篭の砂利道に戻る。はあはあと息が上がった。暗くて重苦しい、じめじめとした気配が大地を舐めるように這い寄ってくる。遠かった広場の灯りがだんだんと近づいてくる。あと五十メートル。
――あめをくれ。
風に乗ってやってくる声が鼓膜をなでる。子供の声のようにも、大人の声のようにも聞こえる。いや、そもそもこの声はひとりのものなのだろうか。幾重にも重なって聞こえるような気もするし、男なのか。女なのかもわからない。けれどとてもおぞましい気色に満ち満ちている。それがもうすぐそこまで。自分たちに差し迫ってきているのだけは確かだ。
とんっずず。とんっずず。とんっずず。
杖をつき、足を引きずり、一歩へも前へ。
早く、早く、早く。
逃げろ、逃げろ、逃げろ。
広場までの石灯篭の数はあと三十? 二十?
隆介の背におぶわれた弟の大樹はまだ意識を失ったままだ。隆介は時折彼を背負い直すように体を揺すった。こちらを気にしつつ門へと向かって走っていく彼に『大丈夫』とうなずきながら前へと進んでいたときだった。
――逃がすもんかえ。
「え?」
ざあっとひと際強い風が吹いた。あっと思ったときには遅かった。立っていられないほどの強烈な風に背中を圧されて、思わずその場にひざがついた。前のめりに倒されると同時に、誰かに引っ張られるようにわたしの手が伸びた。前を行く隆介の足首を強く掴んで引き倒した。
「うわあっ!」
最初のコメントを投稿しよう!