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こんなことをしている暇はないのに。
自分にはやらなければならないのに。
そんな思いまでがぐちゃぐちゃになって胸に押し寄せ、堪えて、堪えて、堪え続けてきた気持ちが涙になって外へ出てきた。
嗚咽が漏れた。
頭を抱えて、小さくなる俺の前に梨菜子が立ったような気がしたけれど、顔を上げる気にもならなかった。
「そこまでにしてやったらどうかね、梨菜子」
しわがれた声がしたのはしばらく経ってからのことだった。
反射的に面を上げ、声がした裏口に続く廊下へ視線を向けた。
目を凝らす。
のっぺりとした重たい闇がゆうらり、ゆうらりと揺れていた。
ゆれる闇には白い目がふたつ、はっきりと浮かんでおり、それらはずるり、ずるりと床を滑りながら、ゆっくりと台所へ近づいてきていた。
梨菜子を知っているということは、あれもバケモノで、俺を捕まえに来たのか――ぎゅうっと思わず体をこわばらせ、半ば椅子から腰を浮かして身を引く。カタカタと歯の根が鳴った。そんな俺の向かい側で、なにがおかしいのか、梨奈子がふっと小さく笑った。
やがてのっそりと、影が台所へ入ってきた。
灯りが影の正体を映し出した途端、俺は椅子の後ろへパッと身を屈ませた。伺うように相手を見て、言葉を失った。
むき出しになるくらいの勢いで、目が点になった。
そこにいたのは八十すぎの白髪頭をしたやせぎすで小柄な老人だった。
しかも知っている顔だ。
正確には知っていた顔だった。
けれど、それはありえないことだ。
俺が知っているその顔はもうずっと昔に失われたもののはずだった。
こんなしっかりした顔ができるはずがないからだ。
その事実と現実が錯綜している。
情報分析が追いつかない俺が言えたのは、たった一言、その老人の名前だけだった。
「宮村の……爺さん?」
「おお。久しいのお、隆介。こうして話すんは五年ぶりか?」
そう言って、美和子の家の裏に住んでいる宮村勝次その人はやんわりとした笑顔を浮かべた。
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