31人が本棚に入れています
本棚に追加
本来だったら学校へ行くのさえ、彼には大変なことなのだろう。それでも、私たち家族に心配かけまいと、彼は彼なりに精一杯がんばってくれている。それがわかっているだけに町の風習に対する怒りは並々ならぬものがあった。
「大樹はどうしてそんなに前夜祭に行きたいの? 明日でもいいでしょ? 明日ならお姉ちゃん、いっしょに行ってあげるから」
「だって、明日になったらりんご飴買えないじゃん!」
弟はそう言って大きく肩を落とした。彼の答えと落胆ぶりに、わたしはハッと息を飲んだ。そうしてやっと合点がいった。弟がどうして前夜祭に行きたいのか。ごねるのか。
お祭りの日には決して飴を買ってはいけない――その禁忌を犯した者はどうなるか、町に住む者で知らない者はいない。だからこそ、弟はこの前夜祭に行きたいのだ。当日でなければ飴を買えるだろうと、そう思って。
「前夜祭でも飴は……だめだよ。あめごいさんの……ものだから」
「それじゃあ、なんで売ってるの? おかしいじゃん」
「飴を売ってるのは、あめごいさんにあげるためだよ。ねえ。りんご飴以外じゃダメなの? ほらっ、綿菓子なら」
「やだよ! りんご飴がほしい!」
「いいかげんにしなさい!」
あまりにも駄々をこねる弟に、たまらずわたしは声をあげた。弟の顔が急速に赤くなった。目を潤ませ、ぐうっと奥歯を噛みしめる。こぼれ落ちようとする涙を必死にこらえている様子で、唇がわなわなと震えている。彼はわたしをキッと鋭く睨みつけると、腹の底から声をあげた。
「ねえちゃんなんかだいっきらいだ!」
「大樹!」
弟はくるりと背中を向けると、鉄砲玉のように台所を飛び出した。廊下をだだだっと大きな足音を立てて走る。彼がこちらに背を向けたときに、オレンジ色に近くなった黄色いTシャツにべったりと泥の手跡がついていたのが見えて、わたしは自分の犯した過ちに戦慄した。普段からわがままなどいっさい口にしない弟がどうしてあれほどりんご飴に固執するのか、その本当の理由に気づいた瞬間、熱湯を浴びせられたような衝撃に目がくらんだ。
そうだ。弟にはいっしょに祭りに行く友だちなどいない。いじめられていても助けてくれる子さえいない。いつもひとり、彼は歯を食いしばっている。りんご飴こそはそんな自分の境遇を変えてくれるかもしれない。いじめっ子たちをぎゃふんとやり込めるアイテムになるにちがいないと弟は考えたのだ。ああ、それなのに、それなのに……
「ごめん! 大樹! ねえ、待って!」
わたしは急いで彼を追いかけて玄関まで走った。必死になって手を伸ばしたけれど、弟の背中には届かなかった。黒々とした闇夜に彼の背中が溶け、世界を断絶するかのようにばたんっと派手な音を立て、扉がしまった。
二十センチほどの上がり框から三和土に降りたところで、飛び出していった弟に踏み散らかされた靴につまずいた。ぐきりと足首が変な形に曲がった。三和土にへたり込む。嫌な方向に足が曲がった上に、体重が思いきり乗ってしまったのだろう。じんじんと痛んで起き上がれない。足首は急激に腫れあがって、強い熱を帯びている。痛い。たまらなく痛い。
――だけど……追いかけなくちゃ。
弟は靴も履かずに飛び出していった。今追いかければ絶対に大丈夫。
「大樹……」
わたしは扉に向かって、体をいざった。大きな吸盤みたいに足に貼りついた靴たちがいざるたびに三和土を舐め、ずわり……ずわりと湿った音を立てた。
最初のコメントを投稿しよう!