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 とんっずずっ、とんっずずうっ――という音だけがうすぼんやりとした闇の中に響く。普段なら田んぼでやかましく鳴いているカエルたちも今日は息を潜めている。風も吹いていなければ、月も雲隠れしていて顔を出さない。星さえも見えない夜は不気味な静けさに包まれている。  電気のある生活に慣れていると、この暗がりはひどく恐ろしいものに思えて仕方ない。普段歩きなれているはずの道がまったく違うものに感じられるからだ。  頼りになるのは側道に等間隔で置かれた大型の角行燈と、各家の玄関の軒先に吊り下げられた丸提灯の灯りだけ。気を抜くと歩道の段差につまずきそうになる。  それでも大人用の傘を杖にして、生き物の気配のない道を広場に向かってひた進む。闇に浮かび上がる行燈の光は広場に続いて、お祭りの屋台が並んでいる。大樹はきっとそこにいるはずだ。ただ問題はりんご飴の屋台がその広場にないことを大樹がいつ知ってしまうかだ。  つつっ……と額から汗が垂れ落ちてくる。一旦立ち止まって汗を拭う。セーラー服が汗ばんだ背中にじっとりとはりついている。心なしか汗臭い。足首が腫れているせいで、歩きにくい。骨折はしていないと思うがかなりの痛みである。固定していないから余計に痛むのかもしれない。  今、どこらへんまで来たのだろう。振り返っても、建ち並ぶ家々は大きな黒い塊になってしまっていて、自分の家がどこなのかもわからない。本当だったら走りたいのに、満足に歩けないのがもどかしい。こんなところでぐずぐずはしていられないというのに――  不安になる原因は、ひりつくような奇妙な予感が先ほどからずっと押し寄せていることにある。首の裏をがりがりとこすりたくなるような嫌な感覚。腹の底をさらわれるような気持ち悪さ。足の裏をムカデの群れが這っているような薄気味の悪さ。虫の知らせ――とでも言うのだろうか。母が亡くなるときも、祖母が事故に遭うときにも感じたものと同じなのだ。  そんな予感があるからといって、自分に何ができるわけでもないのは過去の経験が物語っている。ただ知らされるのだ。なにか起こるぞと……それゆえ、余計にひとりでいる弟のことが心配だった。同時にひどい後悔が襲う。  自分が声を荒げたばかりに、また彼の真意をきちんとくみ取ってやれないばっかりにこんなことになってしまった。同級生の羽村隆介(はむらりゅうすけ)と帰りがけ、お祭りのことでケンカになったせいもあってつい、言うことを聞かない弟にカッとなってしまった。ケンカの原因自体が弟だったせいもある。だからといって弟に責任があるわけではないのに、ひどいやつあたりだ。弟にしてみたらいい迷惑だろう。どうしてうまくいかないときは、こうなにもかもがうまくいかなくなってしまうのか。そう思うと余計に焦りと不安が大きく募る。  弟は今頃、りんご飴の屋台を必死になって探し回っているにちがいない。弟との口論では思わず『売っている』ことを肯定してしまったけれど、これまで一度としてりんご飴の屋台を見たことがない。探しに行こうとしたことはわたしにも経験がある。しかし母や祖母に強くとめられたのだ。 母はりんご飴の屋台だけは特別だからいけないと言った。あめごいさんのためだけに現れるお店。その屋台がいつ、どこに現れるのかは誰も知らない。店自体がこの世のものではないのだと――  だから、弟が見つけられるはずがない。弟はわたしと違って普通の子だ。見つけられっこないのだと思ってみるものの、不安は簡単にはぬぐえない。きっとそのあとに語った母の言葉があまりにも怖かったせいだろう。 ――見つけた者はあめごいさんにお山へ連れていかれるの。  屋台の店主がくれる大きくて真っ赤な飴は、どんな闇夜でもまるで燃え盛る太陽のように赤々と浮かび上がってよく見えるらしい。あめごいさんはそれを目印にするから、屋台を見つけても絶対に近づいてはいけない。まして飴をもらうなどもっての外だ。そう語る母の言葉は鋭く険しいのに、目はひと際さみしく、悲しげだった。あのときの母の顔を思い出すたびに、万力で押しつぶされるみたいに心臓がぎゅうっと苦しくなった。  母がそんな顔をした理由は亡くなったあとで祖母から聞いた。その話によれば、母はりんご飴の屋台を見たことがあるらしい。いや、母の前に屋台が現れたのだ。とはいえ、母は飴をもらわなかった。祖母から絶対にもらってはならないと教えられてきていたからだ。  けれど、母といっしょにお祭りに行った友達がだめだと言うのも聞かずにもらってしまった。母はどうにも怖くなって、飴を捨てようと友達に提案したが、逆に友達を怒らせてしまい、母だけが泣きながらひとりで家に帰ってきたそうだ。その後、母と別れた友達は祭りが終わっても家には帰ってこなかった。どんなに探しても痕跡ひとつ見つけられなかった。翌日も、その翌々日も祖母に止められるまで、母はひとり、何日も何日も山に向かって友達の名前を叫び続けた。そうしてようやく、母はその友だちが自分の身代わりになってしまったのだと悟ったらしい。  そんな話を聞いていたから余計に不安だった。 ――お願い、大樹! 無事でいて!  そう心の中で祈りながら、わたしは必死に前へ前へと足を繰り出した。
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