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(3)
「美和子!」
名前を呼ばれて振り向くと、提灯を片手にこちらに向かって暗がりを駆けてくる人影があった。思わず体がこわばり、傘の柄を握る手に力がこもる。だんだん近づいてきた影の手にある提灯の表面には『羽村家』という黒い墨で書かれた文字が読み取れた。それとともに馴染みの顔がはっきりと見えると、肩から急速に力が抜けていった。
「ああ、隆介か。脅かさないでよ」
「それはこっちの台詞だよ。おまえに謝ろうと思って家へ電話したのに出ないし。心配になって家に行ってみたら行ってみたで、誰もいないうえに鍵もかかってないしさ。裏の宮村の爺さんなんて、きっとお迎えが来たんだなんて変なこと言うんだぜ? なんか嫌な予感してさ。こうして広場のほうへ走ってきたら、美和子っぽい影が見えたから」
羽村隆介は全力疾走してきたらしく、ぜえぜえと乱れた呼吸を整えながら答えた。陸上部でハードル走の選手の彼はすごく足が長い。身長もわたしと顔ひとつ分ちがう。眉目秀麗な面立ち。利発で育ちの良さがうかがえる居ずまい。事実、彼の家は金持ちだ。町で一番大きな家に彼は住んでいる。雨乞子村の頃からの大地主の家系。町の者は羽村家に頭があがらない。うちもそうだ。
そんな羽村家の人に、わたしはよく思われていない。たぶん、わたしの出生が原因だろう。彼はそんなことは気にしないと言っているが、町の人たちはちがう。ここでは家柄が第一なのだ。たとえそれが中学生同士のつき合いであろうとも。ただそれでも隆介がこそこそすることなくつき合ってくれることが、わたしにはたとえようもないほどうれしいことだった。
隆介が右腕で額の汗を拭う。家に帰ったのに着替えていなかったらしく、学生服姿のままだ。「あっちいなあ」と汗でべたべたとくっつくワイシャツを肌から引きはがすようにパタパタ仰ぎながらゆっくりと状態を起こす。
「足、どうしたんだよ?」
「大樹を追いかけて、三和土でくじいたの」
「大樹? 弟がどうかしたのか?」
「ひとりで……出て行っちゃって……」
声がわなわなと震えた。隆介の顔がにわかに強張った。
「それでおまえもひとりで? なんで俺に連絡しなかったんだよ!」
「だって隆介……大樹といっしょには祭りに行きたくないって……だから弟のこと、きらいなんだと思って……」
途端に彼は頭をぐしゃぐしゃと乱暴に掻いた。「ああっ、もう!」と叫ぶ。
「ちがう! そうじゃない! おまえの弟のことを俺がきらうわけないじゃん」
「でも、隆介の家はわたしのことを嫌っているから」
「あいつらといっしょにすんなって前から言ってるだろうが。それに、俺が大樹と行きたくないって言ったのはそういう理由じゃなくって……」
そこで隆介が口をつぐむ。なにか言いあぐねている彼をじっと見つめると、彼はそっぽを向いた。顔が赤く見えるのは、橙色の灯りを映しこんでいる影響だろうか。
「とにかく大樹をいっしょに探そう。歩けるか? 肩貸すか?」
「大丈夫。これ、持ってるから」
大人用の大きな蝙蝠傘を見せる。隆介はわかったと深くうなずいた。「つらくなったらおぶってやるから」と笑って、隣に並んで歩きだす。
ゆっくりとしか進めなくても、隆介は早く歩けと急き立てることも、遅いと愚痴ることもなかった。わたしの歩調に黙って合わせてくれている。途中転びそうになるのを隆介と杖代わりの傘に助けられながら、なんとか広場に到着したときは、手のひらまでが汗でびっちゃりと濡れていた。
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