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序章 梨代子
これは抜け殻だ――そう思った。
ぽっかりと開いた二つの黒々とした空洞。そこから小さな白い虫がうじゃうじゃ束になって出たり入ったりを繰り返している。ブンブンと忙しい羽音を立てた蠅が周囲を覆うように塊となって飛んでいる。可能なら、鼻を失くしてしまいたいと思えるほど耐えがたい臭気が、辺りを埋め尽くす背の高い若草の臭いを押しのけて、真夏の熱気に色濃く漂う。
太陽は容赦なく照らしつけていた。熱線となった光にじゅわっと音を立てて、くぼみの周辺の土色の肉が焼けたように見えた。
これは満智子だ――と私は思った。
年に一度の夏祭りのあの日。彼女は赤や青、黄色といったカラフルな水風船が水色の地によく映えた浴衣を着て、私を迎えに来た。今年買ってもらったのだと言って、彼女は弾けるような笑顔を私に向けた。
そしてりんご飴。
あの日、彼女が屋台の主人にもらったりんご飴の竹串が、乱れて形が崩れかけたお団子に結った頭のてんこちょに、ぶっすりと刺さっている。リンゴはなにかに食われたのか、歯型の残った芯の部分が残っているだけだけれど、それだって、彼女が自分で挿したものだということを、私は知っている。りんご飴のかんざしなんて可愛いでしょと白い歯をむき出しにして笑った彼女に、私は返したほうがいいと言った。
けれど、彼女は聞き入れなかった。
それどころか、貰えなかったことを羨んで、わざと意地悪なことを言うのだと。卑しい身分の子供はやっぱり卑しいものなのだ。親の言う通りだと、私を罵った。
もはやなにを言っても、飴を手に入れた彼女に通じなかった。
なぜなら、飴は特別な子がもらうものだからだ。
だから、彼女はこれ見よがしに目の前で挿して見せた。私は神様に選ばれた人間なのだと笑いながら。
そんな満智子の遺骸を今こうして目の前にして、私は落胆とも安堵とも知れない心地でいる。
彼女が夜の闇の中へと消えてから一週間。私はずっと彼女を探し続けていた。村中を隈なく探しても見つからなかった彼女と……いや、彼女の抜け殻とこうして対面して、ふと疑問が脳裏をよぎった。
はたして彼女はいつからここにいたのだろう。ずっとこうしていたのだろうか。それならどうしてもっと早く見つけてやれなかったのか。この河川敷の草むらだとて、大人が何十人も分け入って、棒で突き回すようにして捜索したはずなのに。
まるで自分に見つけてほしかったと言わんばかりにポッと現れた彼女の抜け殻は、腐って目玉がなくなり、肌は赤黒く焼け、溶けて骨から剥がれていた。はいていたはずの赤い鼻緒の小さな下駄は片方がなくなっていて、はだしの足から骨が見え始めている。
もう笑うことも、私の名を呼ぶことも、まして罵ることもない彼女の体に、おびただしい数の虫が食らいついている。
きっと体の中も虫でいっぱいなのだろう。虫という生き物は豊かなたんぱく源であり、栄養たっぷりなのだと、この間テレビでやっていたのを思い出した。
満智子の体を食べた虫もおそらく栄養満点なのだろう。虫にしてみれば、人間は大層なごちそうに違いない。彼女をたくさん食べて肥え太った虫を鳥が食べ、その鳥を大きな獣が食べ、そのまた獣を人間が食べる。そうやって、いつか私の口に彼女の肉が巡ってくるかもしれない。
私はごくりと喉を鳴らした。じりじりと照りつける太陽のせいで汗をびっしょりかいている。喉がひりついて、焼けるように熱い。暑さにやれたのか。それともこの異様な光景のせいなのか。頭がくらくらしてぼんやりとする。
「梨代子」
名を呼ばれ振り返ると、叔母が立っていた。叔母は真っ青な顔で私と彼女の抜け殻を交互で見つめた。
「見つけたんだね」
叔母が私に聞くともなくつぶやいたので、私は「うん」と小さな声で答えた。
「帰ろう、梨代子」
「でも……」
叔母は「心配せんでいい」と弱々しく首を左右に振ってみせた。
「あとで勝次さんに言って、羽村の当主に知らせてもらうから。それよりもおまえ、あれには触れてないだろうね?」
「うん。触ってない」
私が答えると、叔母はほふっと安堵の息を漏らした。そうして私の手を強く握ると、ずんずん歩き始めた。一刻も早くここから立ち去らねば――叔母の危機として固くなった顔を見たあと、私はもう一度振り返った。
魂が抜け落ちたがらんどうの体だけが草むらの中に横たわる。その魂は一体どこへ行ってしまったのか。主様の腹の中にすっぽり収まって、今も苦しみ悶えているのだろうか。
ぽつぽつと全身が泡立った。身震いひとつ。
あまりにも怖くて、私はひしっと叔母の腕に縋りついた。もう、後ろは振り返れなかった。
日下満智子は自分の身代わりになったのだ――私はこのとき、ようやくその事実に思い至った。
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