第一章 わたしが殺しました

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第一章 わたしが殺しました

 いつもの教室。いつものホームルーム。  そこにあの子はいなかった。  置かれた花瓶はその席の意味を示す。もう帰ってこないクラスメイトのことを、他のみんなは受け入れ始めていた。起きてしまったことはしょうがない。一旦記憶の片隅に追いやって、それから少しずつ忘れていこう。人生はこれからも続いていくのだから、と。  他人事。死んだ人間のことなんて、わかりようがない。  もう二度と会えない。話せない。そんな相手に神経を割くことの無意味さを、この教室の人たちは少しずつ学んでいくのだろう。仲良くなりようのないクラスメイトに気を遣ったところで、クラスの居心地が良くなるはずもない。むしろ明るく努めるほうが前向きで、立ち直るための近道になるのだろう。  だからといって、忘れていいの? 死んだ人間のことをわからないままうやむやにしていいの? 今はもう言葉を発さない彼女が、このクラスのことをどう思っていたのか、知りたくないの?  誰かが言っていた。彼女はきっと幸せだったと。でなければこんなに悲しいこと、あっていいはずがないと。  だけどそのまま死んでしまったなら、幸福だったとしても意味がない。幸福を感じる心が止まってしまっているから。それならいっそ不幸であったほうがいい。寡黙な幸福よりも饒舌な不幸が、あの子の語るべきものだった。  だったら私が代わりに語ろう。もういない彼女の分まで不幸になってやろう。クラスのことなんてどうでもいい。後ろ向きに、ずっと挫けたままで居座ろう。  これは弔いなんかじゃない。忘れるための儀式なんて私は認めない。あの子は私の心に生きている。死んでなんかいない。  死んだとすれば、私諸共殺してみせろ。  湧き上がる衝動のままに席を立ち、間髪入れずに花瓶を打ち倒す。割れる磁器、零れる水。教室内が凍りついたその隙に教室を飛び出す。追ってくる人なんて誰もいない。横目で見た限り、教師ですら教卓の前から微動だにしていなかった。  こんな日がいつか来ると思っていた。  何もかもを置き去りにして、私たちだけが先に行く。誰にも触れられない思い出とともに、心はずっとそばにある。その実感が、確かにある。  気が狂ったといわれてもいい。私に言わせれば、むしろ自分にまだ正気が残っているほうが不思議なのだ。あの子に触れられなくなったのにまだ続いている自分の人生が、不可解でしょうがない。  昇降口で靴を履き替え、そのまま校門を駆け抜ける。驚くほど冷静な頭とは裏腹に、運動不足の両脚が泣き叫ぶ。口からは歪んだ笑いが漏れる。首筋を伝う汗は糊となってブラウスを肌に貼りつける。その感触がまたたまらなく心地よかった。 「みんな、死ね」  吐き捨てた呪詛が誰かに届こうが届くまいが、事実はなくならない。この日私が叫んだことを、私が覚えていればそれでいい。みんなが死に絶えたあと、アルバムのページをめくるように思い出すことにしよう。  そんな簡単なことすら、あの子はもうできないのだから。      ●  夏の残党が揺らす陽炎を辿る。こびりつくような熱が足首をかすめる。それは一歩進むごとに散って、またまとわりつくのを繰り返す。気を緩めれば心まで掬われそうな熱気を素肌に感じながら、コンビニの駐車場で足を止めた。  店内に入る前に携帯の画面を開き、ひとつの画像ファイルを表示する。そこにはわたしの友人の顔が映っている。もう何度も見ているはずなのに、いまだに直視できないその笑顔。それをわたしは、自分が見る以外の用途で携帯に保存していた。  店内に足を踏み入れ、品出しをしている店員のもとへ向かう。大学生のアルバイトだろうか、耳にピアスをつけた茶髪の男性がこちらに気づいた。 「あれ、きみこの前も来てた子だよね」 「はい」 「また人捜し?」  無言で頷き、用意していた画像を見せる。 「この子、ここに来ませんでしたか」 「少なくとも俺がいる時間は見てないよ。先週から五十時間はシフト入ってるけど」 「そうですか」 「きみもバイトするならコンビニはやめときなよ。嫌だって言っても無理やり働かされるんだから」 「大変ですね」  聞いてもいないのに愚痴を溢す男性に話を合わせつつ、店内を見渡す。レジにいる店員は中年の男性。ベテランのように見えるから、おそらくは店長かもしれない。 「ところでその子、先週から行方不明なんだよね? 警察も見つけてくんない感じ?」  興味津々といった様子で店員が聞いてくる。「ええ、まあ」と曖昧に返すと、へらへらとした表情のまま画面に顔を近づけた。必然、身体の距離も近づく。 「こんな可愛い子が家に帰ってないって心配だよな。あー、そうだ、俺この近くに住んでる友達何人かいるからさ、そいつらにもこの画像見せていい? だから連絡先教え――」 「結構です。ありがとうございました」  面倒なことになる前に話を打ち切り、速やかに距離を取る。背後で聞こえるあからさまな舌打ち。下心に気づいていないとでも思っていたのだろうか。だとしたら甘く見られたものだ。  人を見た目で判断するなとは言うけれど、明らかにちゃらついた見た目の男を信用するほどわたしは無垢じゃない。少なくとも前回ここで会ったときは店長がおらず、レジカウンターの裏でサボっていたような人だ。だから店の中に入る前に心の準備が必要だった。妙なことをされたときに、すぐに突っぱねられるように。  でも彼女――純玲(すみれ)はわたしのようにはできない。決して人を見た目だけで判断しないし、前に騙されたとしても次の日には信じてしまうような人間だ。それは優しさと呼べるものかもしれないけれど、単に人を疑うのが億劫なだけともいえる。  そんなあの子がひとりで行方をくらませた。それも先週どころの話じゃない。夏休みが始まるよりも先に、彼女は影も形もなくなっていた。  わたしにはひと言もなく消えた純玲。  けれど失踪から数日後、教室にある彼女の机の中から一枚の書き置きが発見される。  そこにはたった一文、『わたしが殺しました』とだけ書かれていた。  結局今日の聞き込みも空振りに終わった。コンビニだけでなくスーパーマーケットや駅前の商店街でも顔写真を見せて回ったが、誰ひとり純玲を目撃した人はいなかった。  写真を印刷して店頭に張り出そうかと提案してくれた店もあったが、不特定多数に行方不明であることを知られたくないという理由で断った。警察が公表していない以上、事を荒立てるような目立つ行動は取れないという事情もあった。多くの人の力を借りるのはそれだけリスクが伴う。  自分の力だけでやれることの限界は既に感じている。だけどそれでもやらなくちゃならない。わたしの手で純玲を見つけることに意味がある。  聞き込みの対価に買わされた板チョコの破片を口に含みつつ、ベンチに背中を預けた。視界の端には公園内でゲートボールに興じているお年寄りの集団。たまにわたしのほうを見てはこそこそと耳打ちしている。彼らの目には不良の女子高生が公園で暇を潰しているように映っているのだろう。  否定はできない。純玲の捜索を始めてから学校には一度も行っていないし、彼女を見つけるまでは行かないと決めている。今は親しい友人が消息を絶ったという腫れ物扱いに足る言い訳ができるけれど、それも長くは続かない。いくら純玲に友達と呼べる存在がわたししかいないとしても、だ。  純玲と過ごす、何気ない毎日が好きだった。  彼女がわたしを見つけたあの日から、わたしたちは互いの一部を握り合っていた。力は弱々しくて痛むことはなかったけれど、その手を放されて初めてくっきりと跡形がついていることに気がついた。  この跡形は、彼女がわたしに縋ってくれたことの証だ。たとえわたしを信用しきれなかったのだとしても、それまでの間に重ねた言葉までは疑わない。  わたしはまだ、彼女の一部を手放していない。だからわたしには彼女を取り戻す義務があるんだ。  ベンチに広げていた制汗剤やタオルを水色のリュックにしまい、背負って立ち上がる。舌の上にはチョコレートの苦みが残っていて、喉がひりついた渇きを訴える。公園の入り口向かいに自販機があったから、そこで何か買っていこう。 「思っていたより呑気そうだな」  そんなふうに声をかけられたのは、公園内のお年寄りたちからはちょうど死角になる場所まで出たときだった。 「泣きながら街中を駆け回っているものだと思っていたが、案外利口なお嬢さんらしい」 「誰ですか、あなたは」  見上げるくらいに背の高い、細身の男。残暑厳しい時期だというのに長袖濃紺のジャケットを羽織っていて、顔色は病人のように白い。見るからに不審な人物に、咄嗟に二歩後ずさる。 「そう警戒するな」 「無理な相談ですね。鏡見たことないんですか」 「毎朝見てるよ。今日はいつもよりマシだった」 「病院に行くことを強くおすすめします」  ひどいな、と男は薄ら笑いを浮かべる。 「肝が据わっているのは結構だが、初対面の大人に対して攻撃的なのはいただけない」 「不審者の言葉に耳を貸す必要がありますか」 「それを言うならお前は何も受け答えせず逃げるべきだったな」  その通りだ。本来なら逃げる一択だった。でも、そうできない理由がある。 「あなた、わたしを知っているんですか」 「ああ知っている。貴志(きし)未夏(みなつ)、羊頭高校普通科二年、現在は不登校。行方不明になった同学の井滝(いたき)純玲を単独で捜索中」  無表情のまま、淀みなく答える男。 「お前は井滝純玲がどこへ行ったのか、その手掛かりが欲しいんだろう。そして自分がそのために取りうる手段が尽きつつあることを自覚している」  だからこの不審者を相手にしても逃げなかった。わたしが人を捜していること、街中での人目をはばかって公園のベンチで涙を堪えていたことを知っているこの男性が、何かしらの情報を持っている可能性が高いことに気づいてしまったから。  その時点で、わたしの中から逃げる選択肢は消えていた。 「あなたはいったい何者なんですか」 「素敵な台詞だ」  ちっとも嬉しくなさそうに、その男は言った。 「生死を問わない人捜しの専門家。平たくいえば、探偵だな」  当時のわたしはまだ知らない。  これから始まる旅路が、いったいどこへと至る道なのか、なんて。
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