第二章 トラジェクトリィ

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 翌々日、捜索再開。 「井滝純玲は幼少の頃からピアノのコンクールによく出ていたようだ」  車が走り出して数分後、カタギの言葉からブリーフィングが始まる。 「父親が会社を経営していて裕福な家庭だ。娘にピアノを習わせるのは面目的な部分もあるだろう。会社のパーティーか何かで演奏させたりすれば求心力も上がる。教養のある娘さんをお持ちだなあ、ってな」 「嫌味ですね」 「そうだな、これは嫌味だ」  眉ひとつ動かさず、カタギは続ける。 「井滝純玲自身がそれを望んだかは知らないが、ピアノコンクールにはつい最近まで出場していたらしい。彼女くらいの歳になると同世代は皆音大への進学を視野に入れているから、ただ出るだけでも相当の実力がなければ悪目立ちしてしまう。恥を晒さないために練習量は相当要る。そこまでの努力を親の面目のために継続している、なんてのは不自然だと思わないか?」 「単純に、純玲がピアノを好きだから練習しているのではないですか」 「お前から見て彼女はそんな様子だったか?」 「…………演奏しているところは、数えるほどしか見たことがないですけど」 「心から楽しそうに見えたことは?」  思い浮かぶ姿は悲愴なものばかり。耳に残る音はいつも、がんじがらめに縛られたような窮屈さを伴っていた。 「楽しそうには、見えませんでした。必死に頑張ってる、って気持ちばかりが伝わってきて、聴いていられなかった」 「だろうな」  わたしの返答を予期していたのだろう。カタギは平然と話す。 「井滝純玲は過去に二度、出場登録していたコンクールを当日になって棄権している。詳しい理由はわからないが、申告自体は体調不良で出されている。それが事実だとしても、何かしら起因するものがあったはずだ」 「親のためにピアノを弾くのが苦痛になった、とかですか」 「いかにもな理由だが、それだけならもっと早くに辞めているだろう」 「より根深い理由があると」 「あくまでも俺の推測だがな」 「可能性は高いと思います」  ピアノを弾いている彼女を、痛ましいと感じたことを思い出す。無機的に動く指とは裏腹に、流れる旋律はひどく湿っていた。あの孤独な演奏を夢に見たのも記憶に新しい。  あれは忘れてはいけない記憶なのだ。昔の映画みたいに、夢というフィルムに焼き増して再上映をし続ける。劣化は避けられず、わたしという登場人物が丸ごと消えてしまうこともある。ただフィルムを残す本質は変わらない。あのときの、純玲の気持ちさえ刻まれているなら。  純玲がなぜ、苦痛ですらあるピアノの演奏に執着していたのか。  わたしが一度も訊かなかったことを、彼女が居なくなった今頃になって探し求める。とんだ間抜けな話だけれど、それを笑ってくれる人はここに居ない。 「井滝純玲にはピアノが必要だった。だが苦しみながらでも継続しなければならなかった理由までは俺には想像できない。それは探偵の仕事じゃない」 「となるとわたしの仕事ですか」 「そういうことだ」  とんとん、とカタギは人差し指でハンドルを叩く。それは煙草の灰を落とす仕種と重なった。  休日の間に一度くらいは喫煙したのだろうか。そんなことをわざわざ訊く気にもならなかったけれど、吸っていたらいたで少し嫌だな、なんて思ったりした。    ○  山を切り開いて作られた住宅地。麓の駅から中腹にある寺院までは石段と舗装された参道がまっすぐに繋ぐ。直線であるということはすなわち急斜面の険しい道であるということで、段差ひとつ取っても高めに足を上げなければつまずいてしまうほどだ。階段だけでなく平坦な道も挟みつつ中央には手すりも設えてあったのが幸いだった。  休みを作った理由のひとつはこれだったのだろう。この山道を上るのはかなり体力が要る。しっかり英気を養ったあとだからこの程度で済んでいるけれど、もし不休でここに来ていたら、目的の達成どころではなかったかもしれなかった。  とはいうものの、カタギの真っ白い顔を見るともっと根本的な問題のような気もしてくる。回復以前に体力の上限値が低い。汗をかいていないのが逆に心配になる。左手に握ったペットボトルは既に空になっているのに、そこから補給した水分に意味はあったのだろうか。  麓から歩き出して二十分。いかめしい木造の門をくぐると、立ち並ぶ家屋も年季を感じさせるものばかりに変わっていった。昔は寺院で修行する僧侶たちや仏を篤く信仰する商人たちの居住区だった土地らしい。歴史的な背景は聞きかじった程度だけれど、率直に言えば好き好んで住みたいと思える場所ではなかった。  しかし、わたしたちはこの地区に定住する人のもとを訪れようとしている。会う前からネガティブな印象を抱くのはあまりよろしくない。客としてもてなされるために向かうわけではないのだからなおさらだ。 「着く前に少しだけ打ち合わせをしよう」 「素直に休みたいって言っていいんですよ」 「余計なお世話だ」  道端の古ぼけたベンチに座り込むカタギ。むき出しの赤錆がジャケットに擦れた音がしたが、気にも留めない。 「今から会うのがかつて井滝純玲のピアノの先生だった女性だという話はしたな」 「はい」 「やり取りは全部俺がやる。もしお前が彼女の発言に何か疑問を抱いても、直接口出しはせず、できれば視線だけで合図をしてくれ」 「どういう意味です?」 「繊細な人なんだ。二人と同時に話す状況になるとうまく話を聞き出せなくなる可能性がある」 「よくご存じなんですね、その人のこと」 「数回電話をした程度だが十分すぎるくらい理解できたよ。というか、音楽をやってる人間なんて大概そうなのかもしれない」  偏見もいいところだけれど、すぐに反例を挙げられるほどわたしも数を知らない。音楽の先生と、それこそ純玲くらいしか。  わかりましたと頷いて、カタギの手が届かないくらいの位置に腰を下ろす。ふたりぶんの重さに軋むベンチ。視線を向けてくるカタギ。 「なんですか。失礼なこと考えてないでしょうね」 「口にはしていないからいいだろう」 「そういう話じゃありません。言葉がなくても態度に重そうだって出てました」 「そういう話でもないだろう。俺はお前が自分から隣に座ってくるのが意外だっただけだからな」 「あっ、ずるいですよその言い分」 「嘘偽りない本心だが」  小馬鹿にしたような笑み。余裕がないくせに、そぶりだけは上手な人だ。  カタギが自発的に立ち上がるまでの数分、住民と思われるお年寄りが三人ほど前を横切っていった。息が切れる様子はなく、談笑しながら石段をひょいひょいと上っていく。その姿を目で追うカタギは言い訳を探しているように見えた。 「なあ。未夏は自分が何歳まで生きられると思っていた?」 「なんで過去形なんですか……ええと、平均寿命からして八十くらいまでは生きられるんじゃないかって期待はあります」 「そうか。俺はそんな長くは生きられないだろうな。世間一般よりも不健康な自信がある」 「自信持つとこじゃないですよ。生活改善してください」 「それがどうにも難しいもんだ。具体的な目標がないからな」 「いろいろあるでしょう。健康診断に引っかからないとか、あれそれの数値を標準値にするとか」 「体重とかか」 「叩きますよ」  腕を振り上げてみせてもカタギは微動だにしなかった。なんだか漫画の最終話で天寿をまっとうするキャラクターみたいだ。 「大丈夫です。カタギさんは長生きしますよ」 「長生きすることばかりが良い人生でもないと思うがな」 「……聞かなかったことにしておきます」 「ああ。そうしてくれ」  言葉の真意を追求することが正しいとも限らない。  その話題を続けても良い結果は得られないと、たぶんお互いに感じていた。生きることについて話すには、わたしたちはあまりにも死に無頓着だ。  だって、純玲が人を殺したかどうかなんて、最初から問題にもしていないんだから。
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