第二章 トラジェクトリィ

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 昔、父に連れられて先祖代々の墓へお参りしたことを思い出す。一族がまとめて世話になっている菩提寺で、教科書に載っていそうなくらい敷地の大きなお寺だった。どうして自分の家がこんな立派な所にお墓を建ててもらっているのだろうと、幼心に不思議に思っていた。  父は忙しい人だった。仕事一辺倒で、自宅に帰ってこない日が何日も続くことだって珍しくなかった。ごくまれに会うとき、わたしはどう話せばいいのかわからず、敬語でしか話しかけられなかった。それで母親に対しても敬語で話すことが自然になっていったほどだといえば、その影響の大きさも伝わるだろうか。  そういった事情もあって父と過ごした記憶は少ない。菩提寺に連れられたエピソードも、相対的に印象が強くなっているだけに過ぎない。  けれどわたしは父を憎からず思っていたと、線香の匂いを嗅ぐたびに思い出す。 「話せることなんてほとんどないのですけれどね」  純玲のピアノの先生――(まき)日々乃(ひびの)さんは氷と麦茶の入ったコップをわたしたちの前に置いてから、ローテーブルを挟んで向かいの座椅子へと腰掛ける。その一連の所作と佇まいが洗練されていて、気後れしてしまった。  繊細というイメージが先行していたが、対面した蒔さんは柔和なマダムといった気品を感じさせた。年齢としては自分の母親世代よりも上に見える。一方でゆったりとしたワンピースを上品に着こなしている様子から、もっと若くても不思議ではなかった。 「手ほどきをしたのは純玲ちゃんが四歳の頃からです。彼女の母親に頼まれて、月に一、二回くらいのペースで。最初は音遊びの一環程度でした」 「どのくらいの期間ご指導されていたんですか?」 「一年と三か月だったと思います。小学校のお受験で忙しくなってきたのがそのあたりだったので」 「純玲さんは小学校受験をされていたんですか?」 「ええ。かなり苦戦していたようですが、無事入学はできたと聞いています」  蒔さんとカタギのやり取りを聞く。わたしの知らない純玲の情報が、彼女の輪郭を少しずつ霞ませていく。 「入学後、純玲さんとの交流はありましたか?」 「何度か。入学後は別にピアノ講師を呼んでいたそうなので、私が直接指導することはありませんでしたが、彼女の母親とは親交がありましたから。ただ、一年と経たないうちに私のほうが患ってしまいまして」 「お聞きしても?」  蒔さんは小さく頷く。その目は閉じられていた。 「眼の病気です。当時治療に専念したおかげで今もある程度視力は残っていますが、純玲ちゃんたちとは疎遠になってしまいました。お見舞いにも数回来てもらったのに、申し訳ない限りです」  少なからず驚いたものの、小さな予感もあって態度には出さずに済んだ。上品な衣装とはお世辞にも釣り合わない、分厚い眼鏡がそのヒントだった。  彼女はカタギのほうに視線を向けている。わたしが黙っていれば、その意識がこちらに向くことはない。 「お手本のように良い子でしたよ、純玲ちゃんは。歳のわりにしっかりしているというか、親に従順なように見えました」 「従順、ですか」 「躾けの厳しい家庭ではあったと思います。でも私は純玲ちゃんが叱られているところを見たことがありません。裏を返せば私の見ていないところで叱られていたのかもしれませんけれど、想像の域を出ませんね」 「純玲さんのお母様から相談を受けたりは?」 「特には。彼女も彼女で学生の頃から優等生でしたし、苦労しているふうにも見えませんでした。ただ――」  僅かに言い淀む。 「そういった事情を表に出さないタイプでもありました。だから私の視点から話せることなんて、何の参考にもならないと思っていたのです」 「でもあなたは今回の依頼を受けてくださった」 「純玲ちゃんが行方不明と聞かされて、断るわけにはいかないでしょう。あの子の母親にすら伝えられていなかったのに」  眉尻を下げ、蒔さんは悔しさを滲ませる。ぴんと伸びていた背筋が曲がり、身体がひと回り小さく見えた。  わたしがこの人の立場だったら何を思うだろう。疎遠になったとはいえ、自分に助けを求めてこなかったことに憤りを感じるだろうか。それとも旧友の力になれない自分に落胆するだろうか。どちらにしても、何もしないままではいられない。 「純玲ちゃんは内向的な子でした。母親に似て。苦しいことほど自分の中で消化しようとする癖も、ひょっとしたら受け継いでいたかもしれません」 「何か、根拠はありますか」 「お見舞いに来てもらったとき、一度だけ純玲ちゃんに訊いたことがありました。ピアノは続けてる? 楽しい? と。彼女は首を縦に振りました。でもその先に言葉は続かなかった。ピアノを続けていることには肯定を示したけれど、楽しいかどうかは無回答だった。そういう隠し方が、母親とそっくりだったんです」  子どもの応答だ、言葉がなくともそんな深い意味はない。おそらくは蒔さんも当時そう判断しただろう。しかしその些細な反応が未だに記憶に残っている。それ自体が何かあることの証拠になる。  カタギと目を見合わせる。彼は僅かに頷いて、また蒔さんへと向き直った。 「あなたの主観で構いません。純玲さんは、ピアノを楽しんでいるように見えましたか」 「難しい質問です。音楽に限らず、表現は心象そのものを映し出すものでは決してありません。心象を偽るという余計な手間さえ惜しまなければ、いくらでも取り繕える。楽しいふりをしていれば、それで伝わる。そういうものです」  きっとそうなのだろう。でも聞きたいのはそうじゃない。芸術論なんて後回しでいい。回りくどく話す理由はたったひとつ。その答えはわかりきっているからだ。 「純玲ちゃんはピアノを通して自分を繕っていました。作っていたともいえるかもしれません。自分の手足を動かすことを純粋に楽しいと思える年齢には限りがあります。成長していけば自然と楽しさを忘れる。あの子はそれが他の子よりも少し早かっただけ」 「いつか楽しくなくなるようなことをあなたは教えてきたんですか」  蒔さんは首を横に振る。 「そんなはずはありません。私が言いたいのは、音楽には幾段もの楽しさの段階というものがあり、それを一段上るまでの間には苦しい時間もあるということです」 「成長の過程では必要な苦しさだと?」 「あなたも大人なら知っているでしょう。若い探偵さん」 「まあ、一応は。生憎、自分から苦しみに近づくような趣味はないですが」  音楽に何か恨みでもあるのだろうか。カタギがだんだん言葉を選ばなくなっていく。対し、蒔さんは甘んじてその棘を受け止めていた。 「つまり蒔さん、あなたはこう考えている――楽しいかどうかは上達の、ひいては成長の過程には寄与しない。それよりも苦しみのほうが有用で、楽しみはその副産物でしかない、と」 「語弊があります。私は何も、楽しさを否定しているわけでは――」 「いいえ、咎めたいのはそこじゃないんです。俺が言っているのは、苦しみが必要なものだというその楽観的な見方についてなんです」  からん、とローテーブルの上で音が鳴る。喉の渇きを思い出し、初めてコップに口をつける。氷の溶けた麦茶は痛いくらいに冷たく、味がしなかった。 「純玲さんは今まさに行方をくらませているんですよ。なのに苦しみを通過儀礼のように言われて、黙ってはいられません。彼女はずっと苦しみ抜いてきて、結果として行動を起こしたというのに」  らしくない、と思った。熱を帯びた一連の言動は演技で、蒔さんの危機感を煽ることで情報を聞き出そうとしていると考えたほうがまだ自然だった。実際その効果はあって、蒔さんの表情にも動揺の色が表れていた。  しかし、本当に演技なのだろうか。仮に本気で感情的になったわけではないとしたら、彼もまた自分の外面を繕うこと、作ることに随分と長けている。  ややあって、蒔さんが固く結んだ唇を開いた。 「あなたがたは単に雇われただけの探偵ではなく、本気であの子の身を案じてくれているのですね。その気持ちを汲めていなかったことを謝らせてください」  深く頭を下げる蒔さんを見ても、カタギは微動だにしなかった。その目は冷淡に、彼女の口から発せられる真実だけを望む。 「ピアノによる苦しみがあの子を追いやったという可能性を、完全に否定はできません。けれどあの子が高校生になってもピアノを続けていたのは純然たる事実です。それは苦しみが伴ういくつかの段階を、彼女が越えてきているということでもあります」  純玲は何度も乗り越えてきた。わたしの目にした彼女のピアノにまつわる苦境も、同じように乗り越えていったはずだ。わたしの知らないところで。独りで。 「幼い頃の彼女しか知らない私ですが、これだけは断言します。あの子はちゃんと周りに愛されて、歪むことなく成長していました。今の彼女が何をしていようと、その根幹が歪んでいるなんてことは、絶対にあり得ません」  絶対。その言葉が聞けて良かった。純玲は間違ったことをしていないと、自分以外の誰かが言ってくれるのはとても心強かった。  だが一方で疑念も残り続ける――歪んでいないのならばどうして、どんな理屈で、彼女はあんな置き手紙を残し、姿を消したのか。  信じれば信じるほど矛盾していく、二律背反。  越えた先にあの子が居るかどうかも、今はわからない。
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