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「教えていただいて感謝しています。あの子のこと」
玄関先で蒔さんはまた深々と頭を下げた。
「これまで何十人もの子にピアノを教えてきました。純玲ちゃんはその中のひとりです。母親との縁もあって印象深いですが、あの子自身は特別でもなんでもない単なる生徒でした。だから――」
「わかっています」
カタギは制止し、首を振る。
「彼女は何も悪事は働いていない。その証明のために俺がいます」
「……お願いします」
その言葉を最後に蒔さんと別れる。石段を下りる途中で一度だけ振り返ると、おそらくは見えていないはずのわたしたちのほうを祈るような姿勢で見つめていた。
わたしはカタギの指示通り、最後まで彼女と直接言葉を交わすことはなかった。彼女はわたしの顔も声もまともに知らない。それでもわたしは、彼女の祈りに応えなければならないと思った。たとえ自分には何も託されていなかったとしても。
参道の復路は往路よりも視界が開けているぶん注意を払う必要があって、自然とわたしたちの口数は皆無になっていた。坂を這うように吹き上がる風を受け止めながら、一段一段踏みしめるように下りていく。
下り終えたわたしたちはひとまず駅前のハンバーガーショップで昼食を摂ることにした。わたしはチーズバーガーセット、カタギは期間限定のバーガーを含むセットをポテトフライだけひと回り大きくしてオーダー。数分待って、それらは席に届いた。
「相変わらずたくさん食べますね」
「あれだけ上り下りしたんだ。エネルギーを補充するのは当然だろう」
「それはそうなのかもですけど」
わたしにはそこまでの食欲はない。なんならセットについてくるコーラだけでも充分なくらいだ。片やカタギはさっそくハンバーガーにかぶりついていた。
「結局カタギさんは何が知りたかったんですか?」
「んもんもんも」
「もう、食べ終わってからでいいですよ」
不覚にもクスッときてしまった。これではどっちが年上かわからない。
「気になることはいろいろあるんですけどね。蒔さんが純玲を匿っている可能性は、最初から考えていなかったんですか? そもそもどうやって蒔さんと連絡を取ったんです?」
「んも……待て、一気に訊かれても答えられない」
カタギがハンバーガーの半分ほどを咀嚼し終えてドリンクのストローに口をつける様子を、じっと眺めてみる。催促されていると感じたのか、彼は眉をしかめた。
「お前は誤解しているかもしれないが、まず俺には隠している思惑なんてものはないぞ。初めに言っていたように、蒔日々乃から聞きたかったのは井滝純玲がピアノに執着していた理由に心当たりがないかだけだ。匿っている可能性は関係者であれば大なり小なり疑われるし、彼女と接触したのも消去法で連絡が取れるのが彼女だけだっただけの話だ」
ひと息に述べて、またハンバーガーをひと口含む。そして呑み込む。
「どうやら俺はまだお前に信用されていないらしいな」
「あっ、いや、そんなことは」
「別に構わない。むしろそれが正解だ」
俺に気を許すな、とカタギは言う。
誤解しているのはそっちのほうだと返したくなる。一方で彼に期待しすぎている自分を暴露したくなくて、口をつぐむ。
「井滝純玲も、あまり他人を信用しない人間だったようだな」
間を埋めるようにカタギは続けた。
「小学校低学年の頃から既に大人に気持ちを隠し通せるなんて普通じゃできない。それが音楽による素養なのか、家庭での教育の賜物なのかは知らないが。どちらにせよ他者への警戒心のなせる業だろう」
「わたしもその他者のうちのひとりだったんでしょうか」
「貴志未夏がどうなのかは俺にはわからない。本人に訊くしかないだろうな」
「それって配慮のつもりですか?」
「さあな」
純玲がどんな目で周囲を見ていたのか、わたしはこれっぽっちも想像できていなかった。ピアノの旋律の中から彼女の内面が垣間見えるかもと期待したけれど、それも浅い考えだった。
いったいどれだけ厚い殻の中に彼女の心はあるのだろう。わたしは殻の外側だけを見て、それで理解した気になっていた。今まで彼女の発した、わたしを揺さぶる言葉のどこまでが本心だったのかもわからない。
だけど、それがどうしたというのか。わからなければ訊きに行く。カタギに言われるまでもなく、答えを本人の口から聞くまでは悩んでいたってしょうがない。
「ともかく、井滝純玲の過去に何か手掛かりがありそうだ」
ハンバーガーから漏れて指先に付着したソースを拭き取るカタギ。
「今後は彼女の関係者を当たっていく。少しでも行動の傾向を掴めれば成果としては充分だ。その過程で潜伏先を突き止められれば越したことはないが、そう上手く事は運ばないだろうしな」
「しょうがないと思います。焦りはあるけど、一歩ずつでも近づくことに意味がある」
「そういうことだ」
カタギは頷いたけれど、わたしは自分自身の発した言葉に少なからず引っかかっていた。今のは少し物分かりが良すぎたのではないか。本当はもっと焦っているふうに振る舞わなければ、カタギは捜索の手を抜いてしまうのではないか。そんな懸念すら抱かず、彼の方針に理解を示し、肯定している自分は何なのか、と。
単純に困らせたくないのかもしれない。蒔さんも言っていたように、純玲を本気で見つけ出そうとしている彼に対しては、こちらも誠意をもって応えなくてはいけないとどこかで感じているのかも。
――苦しみを肯定することを否定するカタギの、あの横顔が焼きついている。
これは厄介だ。他人の心だけじゃなく、自分の心にもこうして伺いを立てなくちゃならないなんて。
「どうかしたか?」
「……いえ、わたしもちょっと食欲が湧いてきたかもって」
「だと思ったよ」
トレイの上に広がったポテトフライを指差してカタギは「食っていいぞ」と言う。「お言葉に甘えて」と返し、一本をつまんで口にくわえる。
周りには兄妹のように見えているだろうかと、ほんの少しだけ、気になった。
昼下がりのカフェは混んでいた。客層は大学生とおぼしき男女グループが大半を占め、あちこちで賑々しく談笑する声が聞こえる。店内はバックに洒落たジャズが流れているけれど、喧噪はそれらに覆いかぶさり、薄めてしまう。
二階奥のテーブル席でひとり外を眺めながらカタギの帰りを待つ。彼は今回の面会相手を迎えに別行動をとっていた。大学生らしく、講義終わりに合流してほしいとの指示を受けたとのことだけれど、わたしはなぜかここにひとりぼっちだった。
まあ平日の大学構内に高校生がいたら目立つというのはわかる。一応年齢を誤魔化すつもりでちょっと背伸びした服を着ていたりもするのだけれど、当日カタギに却下されたので大人しくこうしている。もっと他のコメントも欲しかったところだったりもするのだが、そっちは望みすぎということで。
しかしもう三十分くらいここで待たされている。アイスティーは半分以上飲んでしまったし、外の往来を眺めているのにも飽きた。本か何かを持ってきていれば時間を潰すのにも苦はなかったかも、と少しだけ後悔する。
手持無沙汰になると、他の客の話し声も勝手に耳に入ってくる。後期の講義の当たりはずれとか、誰が誰と遊びに行ったとか、あの二人はデキてるとか、良くも悪くも大学生っぽい雑談があちらこちらで繰り広げられていた。その中には窓際の席にいる女の子がどうとかいう会話もあって、聞こえていないふりをする必要があった。
あまり自意識過剰だと思われたくないけれど、十分くらい前からたぶんわたしを対象にして話し込んでいる男性三人組がいる。ひょっとしたらこちらに声を掛けるタイミングを窺っているのかもしれないし、誰が声を掛けるかで少々揉めているようにも聞こえる。単に騒ぎたいだけかもしれないけれど――って、わたしは誰に自意識過剰だと思われたくないのだろう。
来るなら来い、と受け答えの覚悟も決まったところで早速声が掛かる。余裕を見せるためゆっくりと振り向くと、そこには顔色の悪い不愛想な顔が。
「なんだ、カタギさんじゃないですか」
「なんだとはなんだ」
「ナンパなら受け付けませんよ」
「何言ってんだ」
呆れ顔のカタギ。その後ろに立っている女性に気づく。ノースリーブのニットにロングスカートで大人っぽい装い。明るく染め抜いた茶髪のふわっとしたパーマがいかにも女子大生。なるほど、この人と比べたらわたしなんてすぐ子どもだと見抜かれてしまうだろう。
「まさか本当にナンパしてくるなんて」
「わかってて言ってんだろ」
「待たされたんですからこのくらいの悪態は許していただきたいですね」
高慢に振る舞いつつこっそり盗み見る。おそらくは今回の参考人である女性は、口元に手を当てて笑いを堪えているようだった。
笑うとこあったかな、と思いつつ奥の席に移り、わたしが座っていた席にカタギが座る。女性が向かい側の席に座ったところで、ぺこりと頭を下げる。
「はじめまして、三澤凜々花です」
「こちらこそはじめまして、わたしは――」
「未夏ちゃんですよね。あなたのお兄さんから聞いてます」
「あっ、はい」
「歳も近いしあたしのことは凜々花って呼んでね」
早くもペースを握られてしまった。コミュ力が高い。
「未夏ちゃんは井滝さんとお友達なんだよね。カタギさんから聞いたよ、学校も休んで捜してくれてるんだって。ううっ、優しい子なんだね」
明るい口調で次々と話すかと思えば急に涙ぐみ始めた。感情の落差がすごい。
「ずっとこんな調子だ。引きずり回されるなよ」
まごつくわたしに横からカタギが耳打ちする。
「正直こういう手合いは俺は苦手だ」
「奇遇ですねわたしもです」
「インタビュー役はお前のほうがいいと思うが」
「でしょうね」
妙な親近感を抱いてくれているようだし、話せるだけ話してもらったあとでわたしからいろいろ訊いたほうが確かに都合は良いだろう。聴取を終えたら疲れ果ててしまいそうなのがネックだけれど。
「あの、三澤さんは」
「凜々花って呼んでよ」
「じゃあ凜々花さん。あなたは純玲とどのような間柄なんでしょうか」
「生徒会で一時期一緒だった、先輩と後輩の間柄だよ」
目元に当てていたハンカチをポーチに仕舞いながら、凜々花さんは鼻をすすった。
「あたしが中等部の三年生だった頃に一年の庶務枠で入ってきたのが井滝さん。うちの生徒会って普通の学校より大所帯でね。彼女の他にも十数人くらい一年生はいたから、そのうちの誰かに誘われて入ってきた感じだったと思う」
「友達がいたってことですか?」
「かもね。でもまあ入会の理由ははっきりしてたかな」
「というと?」
「点数稼ぎ」
唇の前に立てた人差し指を当て、声のトーンを下げて話す凜々花さん。
「生徒の大半が内部進学する学園だからね、校内での素行の評価が進級に与える影響は大きいの。中等部に入りたてでも意識してる子は多かった。あたしもそうだったけど」
「純玲は一年の頃から高等部に行くことを考えていたんですか?」
「明言はしてなかったかな。他の子がだいたいそうだったから、彼女もそうなんじゃないかと思ってただけ。でも進級で有利になるみたいなおっきい特典がないと誰もやらないようなめんどくさい役割だったんだよ、生徒会の役員って」
その役割を務めていた人が言うのだから本当なのだろう。多少の脚色をする理由も彼女にはない。敢えて苦労話をするようなタイプにも見えなかった。
しかし凜々花さんの見解は純玲の実情と矛盾している。純玲は高等部には進まず、外部進学を選択しているのだから。
「そつなくこなす子だったよ。積極的でもなかったし目立たなかったけど、一つ下の世代からはけっこう評価高かったみたいだし、重宝されてた」
「頑張って活動していたってことですか?」
「うん。けど、ちょっと空回り気味だったというか、途中で辞めちゃったみたい」
「みたい?」
「後輩から聞いた話なの。あたしは外部の高校に進学したから受験が忙しくってね」
「待ってください」
きょとんとする凜々花さん。自分で言っていて違和感がないのだろうか。
「あなたは生徒会に所属していたんですよね。それで内部進学を意識していた」
「そうだよー」
「なのに外部進学したんですか?」
「あ、ばれた?」
可愛らしく舌を出す凜々花さんだったが、今おどけられてもこちらは困る。
「適当なこと言ってませんか? 真面目な話をしているんですが」
「ごめんごめん、嘘をついたんじゃないの。入会した当時はまだ内部一択で考えていたってこと」
「ちゃんと説明してください……」
背筋を伸ばし、軽く息を整える。言動の矛盾を有耶無耶にしてしまわないよう気を張り詰め直す。悪気はないのだろうけれど、油断もできない。
凜々花さんは小さく咳払いをしたあと、続ける。
「裏を返すとね、わりとあるんだよ。中等部に入った時点ではそのまま高等部にも進むつもりだった子が、三年になって急に進路を変えることが。もちろん理由はそれぞれ。金銭的な理由の子も居たし、あたしみたいに一貫校の環境に飽きた子も居る」
「飽きたって、そんな理由で」
「侮っちゃダメだよ未夏ちゃん。年頃の女の子の好奇心を」
って未夏ちゃんも年頃の女の子か、と笑う女子大生。天然なのだろうか。
ふと隣を盗み見ると腕組みしたまま固まっているカタギが居た。あてにはできなさそうだとすぐに悟る。狸寝入りを決め込んでいないだけまだマシかもしれない。
「あたしたちの母校ってね、ほんとに箱庭みたいなとこだったの」
今度は物憂げな表情を浮かべている。女優か何かかこの人は。
「初等部中等部高等部ってエスカレーターで、大学も系列のとこに進学する人が半分以上。ずっと顔ぶれが変わらないから閉鎖的で、いろいろ歪んでたんだよ。生徒も、先生もね」
「凜々花さんはそれが嫌になって外部に行ったんですか」
「カッコよく言えば、そういうことだねえ」
肘を立てて組んだ指の上に顎を乗せ、凜々花さんははにかむ。
「けど実際はそんなんじゃないよ。あたしは逃げ出したんだ、あそこから」
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