第一章 わたしが殺しました

2/8
4人が本棚に入れています
本棚に追加
/36ページ
 探偵というものに出会ったのは初めてだった。そういった職業があることは国内では知らない人なんて滅多にいないと思うけれど、実際に本職の人と知り合う機会が皆にあるとは言い難い。もっといえば自らお近づきになろうという状況は既に切羽詰まっていて穏やかではない。警察や救急救命士のような、世話になる時点で何らかのトラブルが起きている職業のカテゴリだった。  思い浮かぶのは通学に使う電車の窓からみえる広告用の掲示板。そのひとつに探偵事務所と書かれた看板があり、続けて浮気調査の文字があった。難事件を次々と解決する物語上の探偵とは違い、現実に存在する探偵の主な仕事は浮気調査やペット捜しというイメージだ。  自宅に帰ったわたしが最初におこなったのは、あの探偵の信憑性を確かめることだった。渡された連絡先をまず検索にかけてみる。目立ったものは特にヒットしない、ただの携帯番号だった。  次に名前。彼は自分をカタギと名乗った。漢字はわからない。堅木、加多義、気質? おそらくは姓。当然そのまま検索しても意味はないから、探偵、人捜しとキーワードを足して絞り込む。生死を問わない、という特徴的な言い回しが気にはなったものの、余計に検索の精度が下がってしまい邪魔になった。  一時間ほど試し続けてギブアップ。事務所や広告、ホームページらしきものは見当たらなかった。正式な探偵は皆探偵業の届出をしているそうだけれど、それを確かめるには警察に足を運んだりいろいろ面倒そうだ。そこまでの時間を割く余裕はない。  結論。あの人はとても怪しい。信用するべきじゃない。  スマホをベッドへ放り投げて部屋を出る。水を飲もうとキッチンに行くと、母が夕飯の準備をしている最中だった。機嫌良さげに鼻歌なんて歌っていて、つまりはいつもどおりの様子だ。 「お母さん。今日の夕飯はなんですか」 「コートジボワール」 「それ国名ですよね」 「間違った。コーンポタージュ」 「それ夕飯なんですか?」  鍋の中には乱切りにされたじゃが芋や人参が詰め込まれていた。どこにもコーンは見当たらない。 「間違った。今夜はカレー」 「だと思いました」  母はふふっと笑い、蛇口を緩める。シンクに落ちる水道水の音で喉の渇きを思い出す。  帰宅してから冷やし直した自販機のソーダはまだ温くて、泡のはじける元気も感じられない。がっかりしながらわたしは冷蔵庫を閉める。そうしたら母はまた笑った。 「あんまり上手くいってない?」  はっきりとは言わないけれど、母が何を指しているかはわかった。気を遣われていることも。 「疲れたら、誰かの手を借りてもいいからね。自分の力で頑張ろうと思うのは偉いけど、それで実現できるはずだったことまで諦める必要はないんだから」  もっともだ。でも、何にせよ諦めることは必要じゃないか。だったら何を諦めないかだけを指針にして動くのが正しいということになる。  純玲を見つけるのを諦めない。これは大前提だ。次に自力だけで見つけ出すのを諦めない。こちらは別に必要条件ではない。諦めようと思えばいつでも諦められる。その選択肢をちょうど今日、提示された。 「お母さんは、わたしが遠回りしていると思いますか?」 「向かう場所が決まっているなら、そうかもしれない。だけどあなたは同じところをぐるぐる回っているように見えるから、遠回りしているかは客観的にはわからないよ。回ること自体が目的ってこともあるし」 「回ること自体が――」 「洗濯機みたいなものかもね」  ふざけたような台詞だったけれど、ここまでの会話の中でそこだけ真面目な顔で言われたものだから、何か深い意味があるんじゃないかと勘繰ってしまう。母は基本的に適当なくせして、何でもないことを重要そうに言うのが上手かった。肝心のたとえのほうはたいして上手くはないのだけれど。  タオルはかごに入れておいてね、と思い出したように告げられたあと、また部屋に戻ったわたしは遅れて気がつく。洗濯機の目的は回ることじゃない。洗濯機に入れられた衣類を洗うために、洗濯機は回るのだ。  だとしたら、わたしは回されているほうなのかもしれない。汚れが取れるまで、綺麗になるまで回され続ける洗濯物。  けどそれは、溺れているのとそう変わらない気がした。  二時間前。 「俺はある人の依頼で井滝純玲の消息を追っている」  公園の木陰で、カタギと名乗る男は低い声で言った。 「行方不明になった女子高生の捜索。それなりにありふれた事案ではある。警察もそこまで乗り気ではない。単なる家出にいちいち対応していられないからな」 「でも純玲は二か月前から出ていったきりです」 「それはお前から見て、の話だろう。出ていったというのも伝聞に過ぎない」 「警察の人が言っていたことを疑えと?」 「逆に訊くが、血縁でもない、単独行動で捜し出そうとするような未成年に警察が包み隠さず話すと思うか?」  言葉に詰まる。薄々感じていたことだった。 「言うまでもないが、警察はお前個人よりも多くの情報を持っている。それでもなお井滝純玲の行方は明るみにならない。この意味がわからないほど馬鹿じゃないだろう」  カタギは内ポケットから煙草を取り出して吸い始める。その一連の動作の途中で、骨と皮ばかりの細い手首が垣間見える。蒼白な顔色も相まって、病棟から抜け出した入院患者のようにしか見えなかった。  落ち窪んだ眼窩に填まった瞳だけが強い生気を帯びていた。まるで瞳に意思が宿っているかのように、それ以外は寄せ集めのパーツであるかのように。  そこに見とれていたわけではないけれど、カタギが煙草を一本吸い終えるまでの間、ひと言も発せなかった。彼はそれを返答に窮していると判断したらしく、無精髭の生えた顎をさすった。 「説明が必要か?」 「要りません。つまり警察でも見つけられないものをわたし一人で見つけられるわけがないと言っているんでしょう」 「それもあるが、それだけじゃない」  二本目の煙草に火を点けながら、カタギは言う。 「一人でいるとついつい自分に都合の良い情報ばかりを信じがちだ。逆に都合の悪い情報や可能性は見ないふりをする。通学路の近辺ばかりをぐるぐる巡っているのがその証左だな。もっと遠くへ行ったかもしれないという発想を切り捨てている」 「それはわたしの――」 「行動範囲なんてどうにでもなる。交通手段を使う金がないなら、親に借りるか自分でアルバイトでもして稼ぐかすればいい。そうしないのは単なる怠慢か? それとも最初から井滝を捜すというポーズをとっているだけなのか?」 「あなたに」  そこでわたしは、自分がひどく落ち着いていることを自覚した。 「あなたに何が、わかるんですか。わたしの、わたしたちのことなんて、なんにも知らないくせに」 「なんにも知らない、はない。さっきも言ったが俺はお前たちのことを知っている。だからある程度は何を考えているかの想像もつく」 「今日初めて会った相手でもですか」 「初めて会うも何も、会う前から俺はお前が泣いていると推定し(わかっ)ていた」  煙草の先端から灰がぼとりと落ちる。 「何もわかってないと吠えるのなら、わかるようにちゃんと話せ。そうすれば俺はお前を親友のもとに導いてやれる」  親友。そんな言葉でわたしたちを表すのか。いや、呼び方なんてどうだっていい。わたしが彼女をどう思っているかを、誰かにわからせる必要なんてないのだから。 「不愉快です」  この男に告げる言葉なんてこれだけで充分だ。それ以上は、冗長だ。 「残念だよ」  カタギは肩を竦め、吸いかけの煙草を携帯灰皿に押し込める。 「まあ好きにすればいい。お前が自力で井滝に辿り着けるなら構わない。もっとも、俺がそれを待ってやる義理はないが」  出で立ちのわりにはしっかりとした足取りで、カタギは木陰を去っていく。その背中に唾でも吐きかけてやりたかったが、ぐっと堪えた。さっき貰った連絡先のメモ用紙をその場で破り捨てなかったのと同じ理由で。  思えば、わたしは探偵への期待を棄てきれていなかったのだろう。藁にも縋る思いが、手段を選べない切迫が、水面下で募り続けているのを自覚していたから。  もしも、純玲の行方が本当はわかっていて、警察が既に発見しているのだとしたら。それが事実だったなら、どうしてわたしには知らされていないのか。  ――生死を問わない、人捜し。  最悪の可能性に思い当たっていながら、未だにわたしは知らないふりをしている。
/36ページ

最初のコメントを投稿しよう!