第一章 わたしが殺しました

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 井滝純玲はクラスで浮いていた。人付き合いがとにかく苦手だった。何をするにも他人に気を遣わせ、それをすぐさま感じ取ってしまうがゆえに人を避け、さらに近寄りがたさを加速させる、悪循環の見本のような人間だった。  彼女が人と話しているのを見たことがない、というクラスメイトは少なくなかっただろう。何故なら彼女が教室で授業を受けるのは週に一、二度であり、いずれの教科でも教師は彼女に何らかのアクションを求めることはしなかった。それは配慮のつもりだったのだろうが、彼女の性格を思えば逆効果だった。  特別扱いされる彼女にクラスメイトは良い印象を持たなかった。それでも自分たちに害はないからと積極的に糾弾する者はいなかった。彼女がいてもいなくても、クラスの運営はうまくいっていたからだ。  そのことを彼女も知っていた。だからもう、このままでいいと思っていた。  けれどそんなのは間違っている、とわたしは言った。      ○  お手洗いから戻ってくると、カタギの姿は忽然と消えていた。  テーブルの上には千円札が二枚無造作に置かれていて、それを持って慌てて会計を済ませて外に出たときにはもう彼の乗っていた車はどこにもなかった。  少し席を離れた隙にこの手際。最初からこうするつもりだったのだろう。結局あの人は質問に答えたというより、わたしに諦めさせるために自ら情報を差し出したのかもしれない。お前の手には負えないぞ、と。  警告にしては回りくどい。はっきり言えばいいのにそうしなかったのは、わたしが聞く耳を持たないのを予測していたからだろうか。それはそれで気に入らない。  初めからあの人はわたしのことを思考パターンまで調べ上げたうえで接触してきた。見ず知らずの人間に知り尽くされているという状況の気持ち悪さは、ややリアリティのある都市伝説を聞いたときに匹敵すると個人的には思う。  今日聞いた話もすべて無条件に信じられるわけじゃない。本人もあくまで推測だと繰り返し言っていた。探偵を名乗るならそこは断言してほしいところだけれど、いろいろと難しい部分もあるのだろう。たぶん。  そんなふうに思考を整理しているうちに、わたしの足は自然と自宅の方へ向いていた。カタギから伝えられた情報を精査するまでもなく、これ以上の聞き込みに意味はないと無意識のうちに結論づけていたのかもしれない。  帰宅すると居間から母の声がした。電話で誰かと話しているようだ。気づかれないように足音を消して、先に部屋へ行って荷物を置く。再び居間に戻ってきた頃には通話も終わったようだった。 「ただいま帰りました」 「おかえり。はやかったね」 「カタギっていう探偵と会ってきました」 「ああ、昨日言ってた人」 「あの人に依頼したのはお母さんですか?」  母はきょとんとしながら答える。 「もうばれちゃったの?」  肩の力が抜ける。あっさりしすぎというか、隠す気がないというか。  考えてみれば簡単なことだ。わたしの今朝の行き先を知っていたのは母しかいない。カタギの言う好意的な協力者が依頼主と同一である可能性にもすぐに行き着いた。 「どうしてですか。やめさせたいなら、直接言えばいいじゃないですか」 「あなたは誤解してる。お友達捜しを止めるつもりはないの」 「だったらなおさらおかしいですよ。あんな胡散臭い探偵――」 「そんな言い方はやめて」  いつも温厚な母が、少しだけ語気を強める。 「彼はとても優秀な人よ。信頼もできる。騙されたと思って頼ってみてほしい」 「そうですか、わかりました、とはならないです」 「まあそうよね」  どうしたものかしら、と母は困り顔。その表情をきっと今わたしもしている。  母の行動がわたしを思ってのことだと理解はしている。娘が高校に通わず毎日あちこちを放浪しているのを心配しないわけがないのもわかっている。今みたいに母を困らせてしまっていることに、罪悪感はちゃんとある。  だけど、それとこれとは話が別だ。ひょっとしたら、騙されているのは母のほうかもしれないのだから。 「あの、お母さん」 「なに?」 「あの探偵のこと、どうして信用できるんですか。高額な依頼料を払ったから、とかじゃありませんよね」 「依頼料。そんなのもあったわね」  まるで初耳のような反応に不安が増す。 「まさか払ってないとか……?」 「そもそもお金の話はしてなかったかな」  頭を抱える。胡散臭いどころの話ではなくなった。 「絶対後で高額請求されるやつですよ、それ」 「考えすぎよ。彼はそんなことしない」 「そう言い切れる理由はなんなんですか」 「彼のことは、小さい頃から知っているからね」  懐かしそうに目を細める母。嫌な予感がした。 「あんな人相でも、わたしからすれば可愛い甥っ子だから」  しばらく声が出なかった。単純に驚いただけじゃなく、その事実に頭がついてこなかった。あまりに率直な拒否感があった。  母の甥ということはつまり、わたしの従兄妹(いとこ)でもあるってことだ。  親戚なら仕方ない無条件に信頼します、ともならないのは当然のことで。いくら血縁があっても初対面ならただの他人と同じ。逆に縁を切りづらい分厄介なんじゃないか、とまで口に出しはしないが、不安なものは不安だ。  それでも探偵に同行することを承諾したのは母のお墨付きがあったからで、母の心配が少しでも和らぐなら、という気持ちも多分にあった。そうして一度でも折れてしまったら、譲歩まではあっという間だった。  上手く外堀を埋められた感じだ。これもあの探偵の策略だったとしたら、本当の本当に腹立たしい。 「今日もご機嫌ななめだな。素がそれなのか?」 「話しかけないでください」  探偵に同行することを決めた翌朝、迎えに来たカタギとの最初の会話がこれだったから終わっている。  一方で玄関前の母は少し楽しげだ。「あらあら、もう仲良くなったの?」って、どこをどう切り取ればそういうふうに見えるのか。 「遠慮なく憎まれ口を言い合える関係って良くない?」 「良くないです」 「漫画の読みすぎですよ、(あかね)さん」  カタギが母を名前で呼んだ。親戚なのだから当然だけれど、実際に耳にするとやはりもやもやする。 「認めたくない……」 「そう言うなよ、未夏」 「馴れ馴れしくしないで」  リュックの肩紐を握る手に力が入る。このまま後ずさりして一定の距離を保っていたかったが、これから車に同乗しなければいけないからそれも叶わない。あえて助手席ではなく後部座席の左側に座るのがささやかな抵抗だった。  車のドアを閉める直前、母がお弁当を持たせてくれた。紺色の風呂敷に包まれたそれはずっしりと重い。 「彼は見かけによらず大食いだから、多めに作っておいたよ」  なるほど確かによく知っているらしい。わたしはお礼を口にしつつ、内心ため息をつく。これじゃ遠足に行くのを見送られている気分だ。真剣なのはわたしだけなのかもしれない。  発車して、手を振る母が遠ざかっていくのをガラス越しに眺める。見えなくなっても居直らずに後方を向いていると、着席を促すように後部の窓を閉められた。渋々座り直すと、カタギとバックミラー越しに視線が合う。 「いい母親だな、あの人は」 「……少し、お節介すぎますけど」 「そうか」  それは良かった、とカタギは言った。 「その弁当、目的地に着くまでに食うが、構わないか」 「そんなに遠いんですか」 「いや、ここから一時間もかからない」  カタギがなぜそんな提案をするのか、最初は深く考えなかった。まだ朝食を摂っていないからその代わりだとか、少し早めの昼食のつもりだとか、カタギ側の勝手な理由だと決めつけていたからだ。  けれど一時間後、それがわたしに対しての配慮だったことが判明する。  わたしが見たのは、食欲の失せるような陰鬱な光景だった。
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