第一章 わたしが殺しました

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「いくつか約束事がある」  目的地までの車中、カタギは何の前触れもなく話し始めた。 「これから出会う初対面の人間の前では俺たちは兄妹という設定にする」 「いきなり無理がありませんか」 「……見えないかもしれないが、俺はまだ二十代だ」  それほど歳は離れていないとは思っていた。顔色や格好のやさぐれ具合から老けて見えるけれど、顔の造形自体は若いというか、幼さすら感じさせる。無理があると言ったのは、単なる反抗心からだった。 「それ以外は特に隠し立てする必要はない。消えた親友を捜している、と好きなだけ情に訴えてやれ」 「なんでそういう言い方するんですかね、あなたは」 「基本的に単独行動はしない。俺もお前も、必要な場合は互いに許可を取り合う。頻繁に俺の目の届くところから居なくなるようなら、容赦なく放置して俺は帰る」 「別に、勝手なことはしません」 「だといいがな」  本日既に四つ目のガムを口に含むカタギ。これから早めの昼食なのに、お腹が緩くなることは考えないのだろうか。  カタギのすることにいちいち目くじらを立てていてもしょうがない。母が依頼主で、この人は依頼主の要望に従って行動している探偵。わたしの立場は、設定を作るまでもなく彼の被保護者。何かを指図できるものではない。 「そんなに不服か?」  声色に出ていたのだろうか。カタギはこちらを見もせずに言う。 「お前はずっと不機嫌だが、もう少し前向きに考えられないか。俺に従うことが嫌なら、母親の頼みを俺経由で下請けしていると考えればいい。お遣いみたいなものだ」 「あなたがそれを本気で言っているなら、もう話しかけないほうがいいと思います」 「そうはいかない。お前とは友好的に接するよう、茜さんに頼まれているからな」 「だったら煽るような言い方はやめてください。売り言葉に買い言葉です」  カタギは数秒の間押し黙ったあと、さっきより小さな声で「気をつけるよ」と言った。  まるでわたしが我侭(わがまま)を言っているみたいだ。なるべく抑えていた苛立ちがふつふつと湧いてきて、こめかみのあたりが鈍く痛んだ。  だけど、これも純玲が見つかるまでの辛抱。カタギがわたしに情に訴えることを期待するように、わたしもカタギの専門家としての能力を利用して一刻も早く純玲を捜し出せればいい。互いの単独行動を抑制する約束事は、その確認の意味合いに違いない。  理屈は揃っている。あとはわたしが成し遂げたいことのために、細かい感情を無視すればいいだけだった。  幹線道路から逸れた住宅地の一角で車を停め、母から持たされた弁当をそこそこの時間をかけて食べ終えたあと、また十数分ほど車を走らせた。半端に高い雑居ビルやアパートが窮屈に敷き詰められたような区画に入り込み、古びた看板のコインパーキングで駐車した。  新しくもなければ古くもない町、というのが最初に抱いた印象だった。わたしが日頃見慣れている街並みより古めかしい建物が並んでいるが、映画か何かで見たようなレトロな雰囲気でもない。特段目立つようなものはないけれど、何故か記憶に残る、そんな景色だ。  カタギは車を降りて早々どこかへ電話をかけた。その間わたしから顔を背けていたのは、おそらく笑顔のようなものを作っていたからだろう。声の調子もなんだか機嫌を取っているようで、薄気味悪かった。  通話はすぐに終わり、カタギは「行くぞ」とだけ言って歩き始めた。向かうのは電話をかけていた相手の自宅。純玲の行方を知っているかもしれない人物に直接話を聞くのだ。  オートロックもない玄関口から入り、吹きさらしの階段を上って三階。一番奥の部屋のインターホンを鳴らすと、扉が開いた。途端に酸っぱい異臭が冷気とともに溢れ出してきて、思わず後ずさる。  現れたのは、緑色のポロシャツを着た小太りの男。特徴的なのは額の広さで、脂ぎった肌に薄い前髪が張り付いている。その下にある腫れぼったい目が、わたしとカタギを交互に見た。 「僕に話を聞きたい兄妹っていうのは、君たち?」  かろうじて聞き取れるくらいの小声だった。続けて「まあ、入りなよ」と言ったところまでは聞こえたものの、そこから先はもうぶつぶつとしか耳に入ってこなかった。カタギも同じだったようで、顔を見合わせたあと無言で頷いて先に部屋へと入っていく。わたしはその後ろに続いた。  室内に入ってすぐ、異臭の原因がわかった。キッチンとおぼしき場所に積み上げられたカップ麺の空の容器。染みだらけの壁伝いには乱雑にまとめられたゴミ袋が並んでいる。他にもろくに清掃できていない要素がいくつも視界に入ってくる。すぐに数えるのをやめてしまうくらいに。  物を押しやって無理やり作られたであろうスペースに座るよう促される。男は床に敷かれた布団の上に胡坐(あぐら)をかき、もぞもぞと口を動かしていた。 「お菓子あるけど食う?」 「お構いなく」  ノータイムで返答するカタギ。目の前の小さな机にある食べかけのポテトチップスの袋から、何を指しているかは予測できた。  不潔。不潔。不潔だ。部屋中どこを見ても不潔。備えられたクッションの上にすら座るのを躊躇った。川底の石みたく、裏返したらおぞましいものがびっしりと張り付いているんじゃないかという、生理的な忌避感。  口で浅く呼吸をするのが精一杯だった。今この環境に不快感を示したらどうなるかということはわたしにもわかる。先程までのカタギの態度からもそれを察するのは容易で、部屋に入る前から覚悟もしていた。  ただ、その覚悟が想定とは違う形で必要だった。主に自分の、耐性がない部分を突かれる想定がわたしにはなかった。  何が勝手なことはしません、だ。わたしにはその場に身をすくませて、情に訴えることんじゃないか。  ふと視線を感じた。顔を上げると小太りの男がわたしをじろじろと見ていた。脚、腰、腕、胸。遠慮のない眼差しでひととおり眺めたあと、値踏みでもするかのように顎に手を当てる。 「うーん、やっぱりなあ」 「はい?」 「慣れてないでしょ、君。捨て切れてない」  何を言われているのかわからない。でも、自分が品定めを受けていることはわかった。 「あー怒らないで。そういうの趣味じゃないし面倒臭いんだ」 「すみません」  すかさず謝ったのはカタギだった。 「こいつは何も知らないんです。俺が教えてなくて」 「そうなんだ。まあそのほうがこの子のためかもね」  さっきから何を言っているんですか。そう言いたかった。けれど答えを聞きたくなかった。このまま黙っていれば、聞かずに済むかもしれないと願ってすらいた。知ることを望んでいた、数分前の自分も忘れて。  カタギは小脇に挟んでいたタブレット端末を動かし、純玲の写真を表示させる。そこにはわたしも並んで写っていた。互いに手に持っているクレープと後ろの風景に見覚えがあり、学校の帰りに撮った写真だということまで思い出す。それ以上のことを読み取るよりも先に、カタギはタブレットを男に差し出した。 「この子なんですが、見覚えありませんか」 「……ちょっと待って。確認する」  そう言って男は自身のスマホを操作し始める。親指を忙しなく動かしてカメラロールを遡っている様子で、ときおりタブレットの画面と見比べるように目を凝らしていた。  数分経って、カメラロールを確認し終えたらしい男がひと言尋ねる。 「その子、なんて名前なんだっけ?」 「」 「残念だけど、今まで泊めた女の子の中にはいないなあ」 「そうですか。ご協力ありがとうございました」 「いいよこれくらいお安い御よ――」 「では」  思考が追いつかないうちに、突然カタギが立ち上がった。返されたタブレットを脇に抱え直すと同時にわたしの腕を掴んで強引に立ち上がらせ、そのまま引っ張るようにして部屋の出口へ向かう。 「お、おい、待て!」  背後からの怒声。今までぼそぼそとした話し声だったのが嘘のような叫び。けれどそれが危機感に繋がったのか、引きずられるだけの身体がようやく動いた。履いてきた靴はすぐには履き直さずに抱え、靴下のまま部屋から出る。カタギが外から扉を閉め、男を閉じ込めている間に靴を履いた。 「先に車に戻ってろ、未夏」 「あ、あなたを置いてなんてっ」 「お前がいないとわかればあいつは興味を失う。落ち着いた頃に非礼を詫びるさ」 「……っ、あとでちゃんと説明してもらいますから!」  そこからは無我夢中だった。内側から扉を殴る音を背に、廊下を走り、階段を駆け下り、来た道を引き返した。どんなに遠ざかっても、あの男の叫びと部屋の酸っぱい臭いが感覚にこびりついて離れなかった。  二十分後、頬を腫らしたカタギが戻ってきた。三万円と顔への一発で許してもらったと、無表情のまま彼は語った。
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