第一章 わたしが殺しました

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 コインパーキングを速やかに離れ、別の市との境界を示す看板を目にしたあたりで車は脇道へ逸れた。そのまま道なりに進み、開けた川沿いに出ると徐々に減速し、駐車場でも何でもない芝の上でエンジンが止まった。  窓から川辺を見下ろすと、小学校高学年くらいの少年たちがサッカーをして遊んでいた。そこで初めて今日が土曜日であることに気づく。学校に行っていないと簡単に曜日感覚を失ってしまうと知って、なんだか本当に不良じみてきたな、と自嘲した。 「すまなかった」  カタギは弁当に同梱されていた保冷剤を気休めに頬へ当てていた。口の中が切れているらしく、言葉を発するたびに眉間にしわが寄っている。運転中にもほとんど喋らなかったし、相当痛むのだろう。 「説明しなかったのは俺の判断ミスだ。先に伝えたらお前は拒否するだろうと思っていた」 「それはそうでしょう。まさかわたしをダシにして話を聞こうとしていたなんて」  車に揺られながら考えていた。あの小汚い男の、舐めるような視線と言葉の意味。想像したくもなかったけれど、考えずに目を背けるほうがもっと嫌だった。 「あのとき逃げなかったら、わたしは何をされていたんですか」 「撮影だ」 「撮影?」 「あの男は若い女を家に泊める見返りに写真を撮るのが趣味らしい。法的にはグレーゾーンな写真をな」 「グレーゾーンな写真……」  馬鹿みたいに復唱してしまった。それは思っていたよりも滑稽で、一見たいしたことのない交換条件のように感じられた。だがグレーゾーンというのはつまり、わたしの想像の及ばないような、いかがわしい写真を撮る、ということで。 「逃げておいて正解でした」  そんな気の抜けた感想しか口に出せなかった。自身に迫っていた危機に対し、学校で教えられた道徳観はまるで役に立たない。ただ他人事と捉えて、そんなことが起こっていたんだと、人づてに聞かされた気分だ。 「でも、トラウマになったらあなたのせいですから」  我ながら意地悪なことを言っている。たぶん、わたしはこの程度で精神的に傷を負ったりはしない。それなりにショッキングな出来事ではあったけれど、今は自分でも不思議なくらいに平静を保てている。  だから心配には及ばないのだと、わたしは素直にカタギへ告げるべきだったのだろう。そうしなかったのは彼より優位に立つためにこの出来事を利用したいという気持ちと、罪悪感で少しでもわたしへの態度を改めさせようという目論見があったから。そんな打算ができる程度には、わたしは本当に平気だったのだ。  けれどそれが言葉にせずともカタギに伝わるのなら、そもそもこんなことは起こらずに済んだはずで。 「すまない」  カタギは絞り出すようにそう言って、俯いてしまった。  沈黙が流れた。重い時間。  どんなに悔いていようが、この人がわたしを取引材料に利用した事実は変わらない。いくら相手を出し抜く算段をつけていたとしても、巻き込むわたしの了承も得ずに実行するにはあれはあまりにもリスキーで、不安定だった。  だけど、わたしにこの人を責められるのだろうか。利用するのも、算段を立てるのも、巻き込んでいるのも、わたしのほうなんじゃないか。  だとしたら、この人にかけるべき言葉は侮蔑でも糾弾でもなく、ほんの少しでもいい、歩み寄りであるはずで。  そんな言葉が素直に紡げたら――何か、変わるのだろうか? 「単独行動」  思い出されたのは、最初の約束事だった。 「単独行動は許可制のはずでしたよね。さっき、あなたが部屋の前に残ることをわたしは許可しました」 「いや、それは」 「結果的にあなたは怪我をしました。その責任は、わたしにもあります」  そこで初めてカタギはバックミラー越しではなく、振り返ってわたしを見た。 「そんな理屈は通らない」 「いいえ、通ります。わたしたちは互いに監視し合うべきでした。片方だけ置き去りにすることも、逃がすことも、ルールに抵触します」 「俺はお前の身の安全を第一に考えないといけない。これもルールだ」 「そんな話は知りません。初めて聞きました」 「ガキだな」 「ガキで結構です。実際、子どもですし」  守ってもらうこと自体は許容する。その庇護の甘さから危険が及ぶことも許せる。だけど一方的に施しを受け続けるのはフェアじゃない。利用し利用される、対等な立場であったほうがまだ気が楽だ。  というか、そうじゃなければ納得がいかない。ともすれば、わたしがこだわっているのはその一点だけで、他はなんだって良かったのかもしれない。 「強がりやがって」  ぼそりと溢すカタギ。 「さっきみたいなことはこの先何度も起こりうる。ネットで声をかけた女子を家に泊めようとするような、ろくでもない大人を訪ねて回るからだ。そしてそういう奴らを釣るために、お前の身を餌にする俺もまたろくでもない大人だ」 「知ってます。だから今更、何人会おうと同じことです」 「簡単に言ってくれる」  わたしの発言は虚勢と取られても仕方ないだろう。あの男に迫られたとき、わたしは心から怯えていた。それを見逃されているはずはない。  思い返すと怖さよりも恥ずかしさが勝る。取り乱していた自分を見て、カタギはどんなふうに思っただろうか。これまでの態度との差に失笑したか、それとも自身の計画を悔いたか。その二択なら、わたしには後者のほうが受け入れがたい。  気を遣われて、足手まといみたいに扱われるのはごめんだ。 「言葉だけじゃなくて、行動で示せばいいんでしょう」 「何をするつもりだ?」 「今後もあなたの指示に従います。もうあなたの決め事にも口を挟みません。勝手なことをしたらあなたが困るというのも理解しましたから、逆らうようなことはもう言いません。ただ」 「ただ?」 「あなたの考えていることを、言葉にしてください。わたしにもわかるように」  純玲がどんな思いで姿を消したのか、わたしにはわからなかった。それを今でも強く悔いている。もしもあのとき、彼女の問いに答えられていれば、と何度も何度も。その答えも、どんなに考えたって所詮はわたしの中にあるものでしかなく、結論にはならない。答え合わせはずっと保留され続ける。彼女ともう一度出会うまで。  カタギは違う。今ここにいて、言葉を交わすことができる。わからなくても言葉にすれば答え合わせができる。結論を出せる。  それがどんなに幸運なことか、わたしは身をもって学んでいるから。 「わかったよ」  前に向き直り、カタギは挿し込んだ車のキーをひねる。  バックミラーから見える彼の口元が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
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