第一章 わたしが殺しました

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 午後は二人の『神』と面会した。  『神』というのは家出中の少女に宿を用意する人のことで、そういった人を募集する掲示板を『神待ち掲示板』というらしい。泊まる場所のない未成年からすれば寝床を提供してくれる存在は神なのだろう。けれど当然のように対価を求めるのもまた神だということを、最初にこの呼び名を使った人は考えていただろうか。  二人目の男性は一人目と違いかなり若かった。白く脱色された髪と、耳についた大量のピアスが何かの漫画のキャラクターを思わせた。訊いてもいないのに自分はホストだと言い出し、女の顔なんてみんな同じだから覚えてない、だからその写真の女も覚えてない、と話した。じゃあ何故聞き込みに応じたのかと訊くと、自分の話を聞くためにわざわざやってくる人がいるのが良いんだと語った。きっと寂しい人なんだろうと思った。  三人目の男性はごく普通のサラリーマンという感じだった。通学中の電車や駅の構内でよく見かけるステレオタイプの社会人。話してみても終始人当たりの良い、高い知性すら感じさせる人だった。そんな人が家出少女に寝泊まりする場所を提供しているなんて誰が思うだろう。神待ち掲示板を利用する理由を問うと、彼はそこでしか満たせないものがあるんだと答えた。わたしにその意味はよくわからなかった。  どちらの男性も聞き込みに応じるにあたって見返りを求めなかった。カタギが今日に限ってそういう人選をしたのかもしれない。自分が未成年を家に泊めていることを知っている人物に突然会って話をしようと言われ、その求めに見返りもなく応じるような人ばかりだとは考えづらい。  今後は一人目のような下心のある人と対面することが増えるだろう。ひょっとするとわたしに再考を促すために、カタギは一人目も含めて計画していたのかもしれない。すべてが計算ずくというわけではないだろうけれど、その目論見は成功しているようにみえた。あくまで客観的には。 「今日は成果ありませんでしたね。まあ、初日から手掛かりが得られるとは思っていませんけど」 「前向きだな。少しは怖気づくかと思ったが」 「別に怖くありませんよ。慣れれば」 「慣れれば、か」 「最初のおじさんも言っていましたよね。わたしってそんなに世間知らずに見えるんでしょうか」 「あれはまた違う意味だろうが、世間知らずっぽいのは否定できないな」  高速道路を降りた頃には陽は沈んでいた。日に日に早まっていく日没に、わたしはまた焦りを噛み締める。でも今日の焦りは昨日までと違う、苦々しい味がした。  家に着くとカタギは母に軽く挨拶をしたあとすぐに帰っていった。母はもう夕食の支度を済ませていた。いつもより少し早い夕食と入浴のあと、今日の疲れが一気にやってきてそのまま眠ってしまった。  そうして、こんな夢を見た。    ○  ピアノの旋律が音楽室を満たしていた。  弾いているのは純玲。白い指が鍵盤の上を滑らかに動く。継ぎ目のない演奏。ゆったりと、質量のある音色が泡のように広がって、降り積もる。  普段教室には姿を見せない彼女は、昼休みにこうしてピアノの演奏をしていることがある。校舎内の多くは校内放送が流れていることから、窓を閉め切っていればピアノの音に気づく人は少ない。昼休みに演奏するのは放課後よりも人目につかなくて済むからだ。  演奏が唐突に終わり、余韻を残す間もなく純玲は立ち上がる。楽譜に何か所か書き込みを入れると、急いで隣の楽器倉庫へ移動した。  数分後、音楽室に最初の生徒がやってきた。五限目前の予鈴が鳴ったあと、さらに足音は増えていく。話し声は騒がしく、聞くに堪えない。純玲は胸の前で拳をぎゅっと握り、身を縮こまらせる。  五限目のクラスは、純玲の所属するクラスだった。けれど彼女は、クラスメイトの声も顔も覚えていない。ただこの時間にこの教室で授業を受けるのが自分の籍があるクラスだという情報を知っているだけだ。  再びチャイムが鳴り、五限目が始まった。当時純玲は知らなかったことだが、音楽の授業は選択科目であり、複数クラスの合同で行われる。ここでしか自分のクラスの雰囲気を掴めていなかった彼女だったが、実際のところそれすらも間違った認識だったことになる。  純玲は今のクラスに馴染むことを最初から諦めていたわけではない。四月は毎日ちゃんと教室で授業を受けていたし、途中から休みがちになって保健室登校を始めてからも教室にいく努力はしていた。だがその努力はまったく実を結ばず、周りから少しずつ冷遇されていくのを肌で感じてしまった。結果、自分の頑張りは傍から見れば努力ですらないのだと、純玲は自分自身に呪いをかけた。  もう十一月だ。夏休みを除いても半年近く、クラスメイトたちと純玲との間には過ごしてきた時間の差がある。今更焦ってもどうにもならない。名簿に名前があっても自分の居場所はそこにはない。  ひたすら耐えるだけの五十分間。和気藹々とした歌声も、教科書通りの協和音も、純玲にとっては猛毒だ。騒音だと思えればいっそ楽だった。あちこちほどけて絡み合ったような旋律に、どうしようもなく憧れてしまう。  そんな懊悩の時間を、無機質な機材の並ぶ薄暗い小部屋で過ごした。自分にはお似合いだと純玲は嘲る。ぬくぬくとした保健室に逃げ帰るより、冷たい物置で己を罰するほうがいい。誰にも見つからず、ひとりきりで。  なのに、願ってしまう。  何もかも上手くやれない自分が、誰かに手を引いてもらえたら。その手を握る勇気がわたしに出せたら。自分にかけた呪縛を解いて、あの旋律の一部になれたら。  みんなに認められなくたっていい。そんな贅沢は言わない。たったひとりでも、私が私を赦してあげられるような、優しい言葉をかけてくれる人がいてほしい。  わがままでごめんなさい。  誰か私を、見つけてください。    ○  そこで目が覚めた。  濡れた頬を拭い、わたしは窓を開け放つ。
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