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第二章 トラジェクトリィ
●
「私にとって、未夏は太陽なんだよ」
唐突な純玲の発言に、わたしは口に含んでいたりんごジュースを吹き出しそうになった。無理やり飲み込んで喉を上下させているうちに、純玲は何食わぬ顔で弁当箱の蓋を閉じる。
「いきなり何言ってんの。恥ずかしいんだけど」
「だってそう思ったんだもん」
「そういうのは思っても口にはしないもんなんだよ」
「そうなの? なんか勿体ないな」
首を傾げる純玲。長い髪がさらりと流れて、胸元で躍る。
保健室の裏手は昼休みでも誰も寄りつかない穴場のひとつだ。放課後は運動部のランニングコースになるから使えないけれど、それ以外の時間帯は人目につかず過ごせるうえに年中快適で、はぐれもののわたしたちはよく利用していた。
問題点といえば保健室にほぼ常駐している純玲はともかく、次の授業が始まる教室へ移動するためにはわたしから会話の終わりを切り出さないといけないことだ。
「太陽って……わたしのどこにそんな輝きがあるのさ」
「輝きというより温かみかな。ほっぺたもほら、ほんのり」
「それは純玲が恥ずかしいこと言ったからだよ」
「でも体温は私よりあったかいよね、いつも」
「純玲が平均より低いだけだと思うんだけどな……」
そういえば純玲をちゃんと認識したのも、微熱があるときに保健室で体温を計らせてもらったのがきっかけだった。保健の先生が席を外している間に、後ろからこそっと体温計を覗き見ていた彼女に驚いたのは記憶に新しい。それから話をしているうちに彼女がいつも空いている席の主であることに気づいて二度驚いたのだった。
「もちろん体温だけじゃないよ。私は未夏からエネルギーをたくさん貰ってる。そうやって光合成してる」
「純玲は植物だったのか……」
「まあ花ですから」
「それは名前でしょ」
「自分を花だって言うのも、なんだかこそばゆいですね」
その発言も聞く人が聞けば嫌味っぽいのだろうけど、わたしはそうは感じない。儚げな純玲の雰囲気は花と形容しうるものだし、クラスメイトの男子もよく深窓の令嬢と呼んでいたりするくらいだ。純玲自身もそういう自覚があるから、冗談でも花にたとえられるのだろう。
本音を言えば羨ましい。でもそれ以上に、いつ萎れてしまうかわからないようで目を離せなかった。
「エネルギー、ちゃんとあげられてるかな」
「ソーラーパネルの増設が求められます」
「光合成じゃないんかい」
「あっ、そうだった」
「適当だなあ……」
「心配しないで、エネルギーはちゃんと貰ってるから」
冗談を言っているようで、その眼差しは真剣だった。
「こうしておはなししてるときもそうだよ。今まで私、人と話すのって疲れるばかりだと思ってた。でも未夏と話してると元気が湧いてくるの。身体がぽかぽかして、軽くなる。これまでできなかったことができそうな気がしてくる」
「それ、ほんとに?」
「ほんとだよ」
ずるいなあ、と思う。
恥ずかしげもなく、わたしの心を揺れ動かす言葉を選ぶ、その強かさが。
「なので、未夏は自分が太陽であることを自覚してください」
「無茶振りだなあ」
「大丈夫、普段通りにしてくれたらいいよ。一緒にお昼ご飯を食べてくれるだけで、私はとても嬉しいです」
もっと欲張ってもいいのに――と、そう言葉にできないわたしもわたしで、きっとずるい。純玲のことを思うなら、彼女がやりたいと思う他のことをできるように助けてあげるのがわたしの役目であるはずだから。そうしないのは、今持っているこの特権を手放したくないからだ。
だから本当に太陽なのは純玲のほう。わたしは彼女の光を照り返すだけの、月に過ぎない。
「わたしこそ、純玲と一緒に居られて楽しいよ」
これは本音だけど本音じゃない。伝えるべき言葉を背中に隠して、姑息に現状維持を図っている。わたしの暗い部分は純玲には見せられない。知られればきっと幻滅される。もうこんなふうに笑って話せなくなる。
なのに何も知らない純玲は、穢れのない大きな瞳でわたしを覗いている。
まるで、何でも知っているかのように。
「ふふ、ちょっと恥ずかしくなってきちゃった」
「遅すぎるよ、もう」
「ごめんね、前から思ってたことだったからどうしても言いたかったの。未夏のおかげで毎日楽しいんだって伝えたかったから――だから、ね」
上目遣いで、縋るように、彼女は言う。
「もし未夏がいなくなっちゃったら私、どうなるかわかんないよ」
今思えば、あれは脅迫だったのかもしれない。
○
純玲が深窓の令嬢と呼ばれていたのには理由がある。保健室登校が病弱というイメージに直結したのもあるが、彼女の生家についての噂が流布されていたのが最も大きい。
曰く、井滝家はとある政治家一族の親類にあたり、上流階級の集まる社交界にも名を連ねているらしい。聞くからに眉唾な話だけれど、まことしやかに語られて多くの生徒がそれを信じていた。何より純玲自身の立ち居振る舞いが洗練されて見えたことが裏付けだった。
その噂をわたしの口から純玲に伝えたところ、返ってきたのは肯定でも否定でもなかった。部分的に合っているのか、それともまったく事実と異なっていて話にもならないのか、それすらわたしの想像に任せる形で純玲は口をつぐんだ。
訊いていい話題ではなかったのだと思う。おそらくはそれと少なからず関連しているであろう音楽室でのピアノ演奏のことも同様に訊けなくなった。純玲についてのいくつかのことは、暗黙のルールで封をされたまま、今に至る。
だけど、それらの秘密が彼女の失踪と無関係なはずがない。
これまでは避けてきたことだけど、もうそんなことは言っていられない。まずは噂の真偽を確かめるところから始める。某探偵の信憑性を確かめようとしたときと同様に、インターネットの力を使える限り使って井滝の家系について調べた。有名な家系であるなら関連する情報にいくつかは触れられるはずだ。
結論から言えばこれは無駄足に終わった。三時間ほど試みて、そもそも関連のある情報かを特定する術がないことに気づいたからだ。井滝という姓はそれなりに珍しいとはいえ、同姓だから純玲と関連するとは限らない。そんな単純なことすら理解するのに三時間もかけてしまったのが、一番の痛手だった。
今更ながら、カタギの言うとおり休むことに専念するべきだった。だいたい捜し人の身辺情報ならとっくに調べがついているだろうし、カタギに直接訊けばいい話だったじゃないか。
まったくわたしってやつは、いつも空回りばかりしている。
『――それで迷わず電話をかけてくる行動力は、お前の長所だとは思うが』
電話越しにでもわかる、渋々といった声色。
『俺もお前も、今日は休むべきだったんじゃないのか』
「だって気になってしまったんです」
『まあ、こうなる予想はついていたがな。それにしたって時間が非常識だ』
時計を見ると、短針は六時を示していた。
「わあ、もうこんな時間だったんですね」
『わあじゃねえよ。早朝六時だぞ。良い子は寝てろ』
「むしろ良い子の起きる時間なのでは」
『そもそもお前は寝てないんだろうが』
「そういうカタギさんも寝てないのでは?」
『推測でものを言うな。俺は昨晩九時には寝たぞ』
「良い子なんじゃないですか」
それも本当かどうかわからないけれど、ひとまずは置いておくとしよう。
「ふわあ」
『さっさと寝ろ。以上だ』
噛み殺しそこねたあくびを、すかさずカタギに咎められる。そのまま電話を切られてしまった。
「悪いことしちゃったかな」
呟いて、徹夜で空転しきった頭でまた考える。
車の中で居眠りしたぶん夜に眠れなくて、過去のことを思い出した関連で調べものを思いついて、夢中になっていたら朝になっていて。そんな言わば日常みたいなものを、寝起きのカタギに一から十まで伝えて。きっと嫌な顔をしているであろう彼の顔が思い浮かんでも、疑問に対する答えが得られなくても、わたしは今、とても満足している。
ああ、そっか。わたしは寂しいんだ。
純玲と話せないことが、昨日も今日も、ずっと寂しいんだ。
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