あの夜を越えていけ

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   無音の室内。  うっすらと相手が見える程度の暗がり。  響くのは、お互いの息遣い。  しっとりと触れ合う。  ゆっくり慎重に、それでいて大胆に。  漏れ出てしまう、甘く切ない声。  (まさぐ)る手は優しく、柔らかく。  這う舌は丁寧に、熱を持って。  くすぐったさがぞくりとする感覚に変わるまで、これでもかというほどに執拗に。  ついばむように落とされたキスはどんどんと深くなり、私のすべてを舐めとるように、身体中に。  たまにチリッと痛むキスに、ぞくりとした。  それは、独占欲の—— 「好きだよ」と幾度となく囁かれた私は、ただ甘い声を漏らして応えた。  重ねた身体に、その人の昂った熱を感じながら。  落とされるキスがどこまでも深く、私を好いているのだと教えるから。 「私も好き」と腕を伸ばした時の、その人の笑顔に幸せが溢れかえった。  お酒のせいじゃない。  低く、苦しげに漏れたその人の声に、どれだけ胸が高鳴ったか。  その夜、私は確かに、その人に恋をした。  ❇︎❇︎❇︎  覚えているのは、サークルでの飲み会。  二つ年上の彼氏に浮気をされた挙句、振られた私は、愚痴愚痴だらだらと飲みに飲んでいた。  怒りと悲しみが混じり合い、もはや何が何だかわらないほど。  隣に座る幼なじみの(よう)ちゃんが宥めるのも聞かず、お前も飲めと付き合わせた上に最後まで絡み通した。  それだけでもかなりの失態なのに、それ以上の失態が今、目の前に横たわる。  見知らぬ部屋。  豪奢なキングベッド。  玄関であろうところから点々と散らばる衣服。  隣で眠る、一糸纏わぬ幼なじみ。  すよすよと、気持ちよさそうに。 (え、ダメだよこれ。ダメダメダメダメ。うそでしょ? 曜ちゃんと? いや、でも……まさか)  夢かと首を振って、身体に残る違和感に現実を突きつけられる。  下腹部にだるさが。敏感な箇所はひりひりと。  何より、何よりも。  耳に残る、熱を帯びた「好き」の言葉が——。 (う、うわぁぁぁあああっ)  そぅっと物音を立てずに、それでも慌てて散らばった衣服をかき集めた。  自らの財布から適当にお札を抜き出し、テーブルの上に。  後から考えれば、曜ちゃんを起こしてちゃんと話せばよかったのにと思う。  だけどこの時はそんな余裕なんてなくて、私はやらかしてしまったことに背中を向けて猛ダッシュで逃げ帰った。  部屋を出る直前、たまたま目に入ったゴミ箱に使用済みの生々しいものを数個確認して。  より一層焦った私は、その後の曜ちゃんからの電話やメッセージをすべて無視してしまった。  ❇︎❇︎❇︎ 「杏奈(あんな)ちゃん」  翌日、避けられない大学で、申し訳なさそうな顔をする曜ちゃんに私はいとも簡単に捕まった。  昨日の夜は夢か別人だったのではと思わずにはいられない。  曜ちゃんはいつだって私の隣にいてくれた、物優しい男の子だったのに。 「昨日……」 「あの、曜ちゃん、ごめんね! 私すごく酔っ払ってたみたいで!」 「ううん、僕も。つい飲んじゃって」  にこり、といつもの笑み。  焦って勢いづく私に、曜ちゃんは穏やかに接してくれる。  まるで昨夜のことなどなかったかのように。 「二日酔いとか大丈夫?」 「ちょっと頭が痛いけど、大丈夫だよ」 「そう。腰は?」 「……腰?」 「うん。結構激しくしちゃったから」 「はげしっ……」  前言撤回。  曜ちゃんはにこりと変わらない笑みで、昨夜のことをほじくり返してきた。 「ああああ、あのね曜ちゃん……」 「あと、ごめんね。いっぱいつけちゃった」  ここ。  そう言って、曜ちゃんは自らの胸元を指さした。  思い当たった私は、顔に熱が集まるのを感じる。  それに気づいたのは今朝だった。  チリッとしたぞくぞくとするあの痛みは、一度や二度だけじゃなかった。  何度も何度も吸われ、つけられた無数のキスマーク。  隠せる服を探すのにずいぶんと苦労した。 「隠すの大変だったよね。僕的には隠さなくてもいいんだけど」 「な、何言ってるの曜ちゃん。ていうか、あの、何言ってるの」 「何って、昨日の……」 「わあああ!! ねぇ曜ちゃん、忘れよう!? 何もなかった! 酔ってたし、私達は何もなかった! そうしよう!?」 「え…………」  私の提案に、曜ちゃんは瞬時に表情をなくした。  真顔。というよりは、瞳の奥に光がなくなったような。  口を開いた曜ちゃんから、聞いたことのない冷めた声音が漏れた。 「何もなかったことにしたいの?」 「だ、だって……」 「僕とのあれは間違いだった?」 「そうは言ってないけど……」 「…………まぁ、いいよ」  はぁ、と大きなため息。  傷ついたとか、悲しげな顔は一切見せず。  影がかかったような怖い顔で背を向けた曜ちゃんは、小さく小さく、「やっと好きって言わせたのに」とつぶやいた。  ❇︎❇︎❇︎  それから数日は変わりなく過ごした。  曜ちゃんと多少の距離はあるものの、概ねいつも通り。  飲み会に参加したサークルメンバーにはあの日のことを心配されながら、そこは曜ちゃんが当たり障りなくうまく話してくれていた。  そう、当たり障りなく。うまく。  と、思っていたのに。  当たり障りがなかったのは、私の前でだけだったようだ。 「杏奈、やっと曜太君と付き合い始めたんだね〜」  サークルメンバーでもある友人が、しみじみと頷いた。 「曜ちゃん? 付き合ってないけど」 「またまた。あんな浮気野郎より断然、曜太君だよ」 「いや、曜ちゃんとは……」 「別れて荒れてたから心配してたけど、収まるとこに収まった感じだよね。羨ましいな〜」 「いや、だから曜ちゃんとは付き合ってないってば」  強く否定すると、友人は目を瞬かせた。  こてん、と首をかしげられた。 「でも、サークルのみんなも言ってるよ?」 「えぇ、何それ!?」 「みんなお祝いモードだよ。本当に違うの?」 「違うよ。曜ちゃんとは……」  ただの幼なじみだよ。  その言葉がすんなり出てこなかったのは、一線を越えてしまった気まずさからか。  それとも、ふとした時に思い出してしまう、曜ちゃんの熱のせいなのか。 (あ、まずい。また思い出しちゃう……)  見慣れたはずの腕。ふくらはぎや太もも。  薄い身体は触れると思いのほか筋肉質で、それが男を意識させた。  熱い舌が這う。まなざしは鋭く私を射る。  いつもより低い声は、熱い吐息と一緒に吐き出された。  誰もが聞くことのない。苦しげな、あの時の声に——……。 「…………杏奈。顔真っ赤」 「だ、だってぇ〜っ」  友人の指摘に、私はぷしゅう、と煙を上げた。  あんなの、お酒のせいにしても忘れられるはずがない。  優しい手つきは本当に大事なものを触れるようだった。  そのせいか「好きだよ」の言葉に、私はうっかり想いを返してしまった。  あんな曜ちゃん、見たことがなかったから。 (……だって、現実だとは思わなかったのよ。あんな、男の人みたいな曜ちゃん)  さらに思い出して、どうしようもなくなった私は両手で顔を覆った。  そんな私を見て、友人は静かに腕を組んだ。 「曜太君、何したんだか……」 「えぇ? 何?」 「見境なく攻めてるなーって」 「なんの話?」 「なんでも。ま、頑張れ」  適当な友人の応援に、私は疑問符を浮かべた。  それ以上のことは何も教えてくれず、「そのうちわかるよ」とだけ。  後日、祝福ムードの周囲に、ようやく外堀が埋められていることに気がついた。  ❇︎❇︎❇︎ 「曜ちゃんが何を考えてるのかわからない……」  毎年恒例、河川敷での花火大会。 「みんなで」と強調して待ち合わせたのに、結局、浴衣で並んで座るのは私と曜ちゃんの二人だけ。  私がサークル仲間に触れてまわった際には快い返事ばかりだったはずなのに。  曜ちゃんはにこにことしながら、途中で買ってきたかき氷をしゃくしゃくと崩しては口へと運んでいた。 「何って、単純だよ。杏奈ちゃんと楽しみたいなぁってだけ」 「だからって、二人じゃなくても」 「みんなが辞退してくれたんだよ」 「絶対に曜ちゃんが何か言ったんでしょ……」  外堀を埋めに埋めた曜ちゃん。  気づけば浮気をされた話などとっくに塗り替えられていて、長年の想いが実った幼なじみカップルということになっていた。  だんだんと曜ちゃんは甘い雰囲気を漂わせて私に接してくるようになり、人前でもお構いなしだ。  私はそのたびにどうしていいかわからなくなる。 「杏奈ちゃん、あーんして?」  このように。  差し出されるストロースプーンに、以前なら何も考えず口を開けていたと思う。  けれど、今はそれができない。  できなくなってしまった。 (だって、思い出すんだもん。ちょっとしたことをきっかけに、いろいろと)  浴衣の袖からのぞく腕とか、ストロースプーンを咥える唇とか。  花火のために明かりが少なくなった、この暗がりの感じも。  二人きりのせいか、いつもより低く出される声だって。 (だから二人は嫌だったのに!)  かぁっと、頰が熱くなる。  差し出されたストロースプーンにぷいと背いて、私は顔を隠した。 「いらないの?」 「……いらない」 「そっかー」  シャクシャクと、曜ちゃんはまたかき氷を食べ始めた。  あっさり引き下がったことに安堵し、顔を上げた私は目線だけでなんとなしに周りを見回した。  友人や知り合いに見られていないか、無意識に確認したんだと思う。  すると、ぱちりと目が合った。  少し離れたところにいる、見覚えのある男女。男は気まずそうな顔をした。  それを見て、私もいたたまれなくなる。 「…………チッ。なんでいるんだよ」  低く毒づく。  違う意味で心臓が跳ねるような、曜ちゃんの舌打ちと声。顔を背けたままだったので、後ろから。  私の元カレへの気まずさは一瞬にして曜ちゃんへと向いた。 「杏奈ちゃん、移動しよっか」 「だ、大丈夫だよ。もう気にしてないし、花火も始まっちゃうから」 「でも、あっちは気にしてる」 「お互いに気まずいだけだよ」 「気まずく感じるだけ、意識し合ってる」 「それは、だって……っ!?」  抱え込まれるように背中から手を回され、うなじに冷たい感触。  何かが這い、ぞわりとしてそれが舌だと気づいた。  チリッと覚えのある痛みに抵抗を試みても、回された腕に押さえつけられるだけ。  冷たいのか熱いのかわからない曜ちゃんの唇は、ちゅ、と音を立ててすぐに離れた。 「よ、曜ちゃん……」 「だめだよ、杏奈ちゃん」  直後、花火が打ち上がる。  わずかな星が輝くだけの漆黒の夜空に、いくつもの大輪が色めく。  元カレはそちらに意識を持っていかれ、私はいまだ首元にかかる火照った息に、花火以上に意識をせざるを得ない。  かかる息が、動く。 「僕以外を気にしたら、だめ。あいつが目の前にいようと、杏奈ちゃんは僕のことだけを考えていて」 「よ、曜ちゃん、もうやめて。人がたくさんいるのに」 「みんな花火を見てるよ」  ちゅ、ちゅ、と。  花火よりも大きく鮮明に聞こえる。  うなじに落とされたキスは、少しずつ前へと移動する。 「…………僕は、あの夜のことをなかったことになんてしないからね」  逃げないようにと、反対側の頰を後ろから伸ばした手で押さえられた。  それでも体は素直に反応し、逃げ場なく首をそらしてしまう。  無防備になったそこに、曜ちゃんは容易く侵入してきた。  喉元にやってきた曜ちゃんの唇が動く。 「ずっと杏奈ちゃんが好きだった。もう誰にも渡さない」  チリッと、熱く。  打ち上がる花火に目線を奪われても、意識はずっとその痛みに。  離れる唇に。  顔を上げた曜ちゃんに、私は吸い寄せられるようにそちらを向いた。  熱い息が、自分のものとは思えないほどに声を甘くする。 「もうずっと、曜ちゃんのことしか頭にないのに……」  頰が触れる至近距離で。  色めく花火に照らされた曜ちゃんの瞳が揺れた。  うっすらと瞳が細められ、開いた唇はきっと弧を描いて綻んだ。 「……あともう一押し。早く僕のことを好きになって」  さらりと、前髪が触れる。  逸らすことなく覗き込んでくるその瞳が恥ずかしくて、目を伏せた。  唇に触れる感触に、苦しいほど胸が高鳴る。  お酒のせいじゃない。  花火の破裂音も、周囲のざわめきも、すぐ近くにいる元カレも。  すべてが曜ちゃんの熱に持っていかれる。  唇が離れたあとの、幸せが溢れかえったような笑顔に、思い出す。  あの夜、私は確かに、この人に恋をした。
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