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「いや、それは流石に思わない」
自分の心を素直に打ち明けたのにもかかわらず、麦は未だに笑っている。悦に入るって、正にそんな感じで。
「蝉の鳴き声ってね、全部オスなんだって知ってた?まだ見ぬ結婚相手に『俺はここだぞー』って言ってるのっ。『愛してるー』って」
ぴんと立てた人差し指と共に麦がドヤ顔を決めたところで、疎らに動く周りの景色。それは青に変わった信号機が人々の足を動かしたからであって、本来ならば俺もペダルを踏まなければならないのだけれど。
「大地どしたの?青だよ」
俺がまだここに留まっていたいと切に思ったのは、愛してるを口にした彼女を、もっと長く見つめていたくなったから。
麦、愛してるよ。そんなことを言ってしまえば、彼女はどんなリアクションをとるのだろう。
「ほら、早くってばっ」
つい今しがた描いたハートを打ち消すように、バシバシとそこを叩かれて、俺は渋々前を向く。揺れる空気、夏の匂い。寿命間近に迫る蝉たちの愛の叫びに包まれるこの季節は、何だかとても儚く、そして尊く感じた。
麦と過ごしたこの夏を、俺は一生忘れない。
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