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 もう兄は帰ってこないかもしれないという思いが強まってきた頃、兄が戻って来たと兄妻から連絡があった。それは私が岩手に来てから十日目の朝だった。私はすぐに両親へ伝えた。大学生という優雅な身分を利用して、私は少し早めの夏季休暇を取っていた気分になっていたが、兄の帰宅を機に夢から覚めたような感覚になった。両親は次の日には岩手にやって来た。どこに行っていたのだと詰め寄る私達に対し、兄は六年前の自分を探しに岩手内陸の山奥を歩いていたと言った。秋田との県境、八幡平の山奥を一人で歩いていたのだという。何のためにと詰め寄る私達に、兄は六年前の自分がこの岩手の山奥にいると確信して山奥を歩き回っていたのだと言い張った。六年前という言葉に兄は拘っていたが私達はそのことを追求することはなかった。なぜ六年前の自分を探すのかと兄妻が質問したが、兄は口を閉ざし、それ以上話さなかった。両親はただ無事帰ってきて良かったと喜んだ。兄妻は喜びながらも山奥を歩いていたということを兄の証言を疑っているようだった。どこの山奥?どうやって十日間暮らしていたのか?何を食べていたか?とか兄妻の質問は途絶えなかったが兄は逐一、回答をしていた。兄妻は兄がどこかで知らぬ女と密会でもしていたのではないかと疑っていたのだろう。数時間に及ぶ「取り調べ」が終わると、兄は解放された。すでに日が落ちて、公務員住宅の外は静まり、虫の鳴き声だけが僅かに聞こえる。皆、それ以上、兄を追求することはなかった。
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