夜明け

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夜明け

僕は、病院の前に立っていた。 ハナの職場の先輩、みゆきさんから聞いた事実。 僕はまだ信じられなかった。 いや、信じたくなかった。 僕の心は、動揺と不安で押しつぶされそうになっていた。 ハナーーー。 ハナーーー。 僕は、胸の中でひたすらハナの名前を呼んでいた。 病院の受付でハナのことを訊くと、すぐに病室を教えてくれた。 302号室の個室らしい。 ハナは、この病院にいる。 病院にいる……。 あんなに元気に笑っていたハナが、なぜ病院にいるのだろう。 ハナ、どうしちゃったんだ。 一体なんの病気なんだ。 ハナの病室の前で立ち止まる僕。 そして。 泣きたくなるくらい不安な気持ちで、ドアをノックした。 コンコンーーーー。 「……はい」 聴き慣れた、そして聴きたかった声が、中から小さく聴こえてきた。 僕は静かにドアを開けた。 そこには、真っ白なベッドに横たわるハナの姿があった。 ハナ……。 驚いて目を大きく開いたハナが、僕の方をじっと見ている。 「トオル……?」 僕に呼びかけながら、静かに起き上がるハナ。 僕はなにも言わずにハナのそばに歩み寄った。 そして、そのままハナを強く抱きしめた。 「……さっき、ハナの職場に行ってきた。みゆきさんから話を聞いたよ。……どうして黙ってたんだよ。どうして黙っていなくなろうとしたんだよ……」 ハナの頬からこぼれる涙が、僕の肩にしみた。 「ごめん……」 「なんの病気なの?いつから悪かったの?」 僕の質問にも、黙って首を振るだけのハナ。 「……僕に心配かけないように、ウソをついてくれたの……?」 なにも言わずに泣き続けるハナ。 「ごめんね、ハナ。僕、ハナのウソに気づいてあげられなかった……。ホントにごめん……。だけど、心配かけてよ。大歓迎だよ。ハナのことなら、僕はなんだって受け入れられる。だから大丈夫」 僕がハナをぎゅっと抱きしめると、ハナがポロポロ涙をこぼしながら言った。 「……ありがとう。ウソついてごめん……。トオル、大好きだよ。でも……もう会えないよ……」 「なに言ってるんだよ。もしかして、僕に迷惑かけるとか思ってる?全然なんともないから。僕はハナの支えになりたい。一緒にがんばって病気を治して、早く退院しよう」 僕はそう言って、ハナの肩を優しく叩いた。 だけど、ハナは僕の手を静かにそっとよけてこう言ったんだ。 「……ありがとう。でも、私……退院できないかもしれない。もうトオルと一緒に出かけたり、一緒にご飯食べたり、そういういろんなこと、できなくなるかもしれない……。たぶん、できなくなるーーー……。だから、トオルの大事な時間、無駄にしてほしくない。お願いだから、私と別れて。それで……誰か他にいい人と出会えたら。その人と幸せになってほしい……」 え……? なんだってーーー? 僕は、ハナの言葉に心底カッとなった。 そして、つき合ってから初めて、僕はハナに大声で怒鳴ったんだ。 「いい加減にしろ!!なに言ってるんだよ、さっきからっ。なんでハナが病気になったからって僕達が別れなきゃいけないんだ⁉︎どうして他の誰かと幸せにならなきゃいけないんだ⁉︎」 数秒の沈黙が流れた。 すると、うつむいていたハナが静かに僕を見た。 そして、こう言ったんだ。 「……治らないの、私の病気。私、もうすぐ死ぬのっ……!!」 え? 僕の中で、一瞬時間が止まった。 泣き叫ぶハナ。 僕は、そんなハナを静かに見る。 病気が治らない……? もうすぐ、死ぬ……? なにを言ってるんだ? 一体、なんのジョーダンだ? 「ハナ……。ウソだろ?ウソだよね……?」 僕のハナの肩を揺する力が、無意識のうちに強くなる。 「ハナッ……!!」 僕は大声でハナの名前を呼んだ。 僕がガクガクとハナの肩を揺する中。 ハナの悲鳴のような泣き声が、病室中に響き渡っていた。 そのあとのことは、うっすらとしか覚えていない。 僕の大声とハナの泣き声で、看護師達が病室に駆け込んできたのだけはなんとなく覚えている。 そして、僕は抱えられるようにして病室の外に出されたんだ。 おそらく病室の中では、看護師達がハナに安定剤の注射かなにかを処方したのだろう。 放心状態だった僕は、ハナの泣き声を背中に聞きながら、病院の廊下をトボトボ歩いて行った。 そして気がつくと。 僕は自分の家のソファーにポツンと座っていたんだ。 どうやって、どの道を通って病院から家まで帰ってきたのか。 全く記憶にない。 僕は、何時間もソファーに座ったまま動かずにいた。 頭が真っ白だった。 ようやく立ち上がったのは、夜になって部屋の中もすっかり暗くなった頃だった。 会社も勝手に飛び出したままの僕のカッコは、よれよれのスーツ姿にボサボサの髪。 そうだ……会社に電話しなきゃ……。 僕はぼんやりする頭のまま、スーツのポケットからケータイを取り出し、会社に電話した。 そして、無断で会社を早退したことを謝罪し、その理由として、身内が病気で入院したためと伝えた。 そして、有休を使って2、3日休むことを伝えた。 電話を切ったあと。 力の抜けた僕の手からすり抜けたケータイが、音を立てて床に落ちた。 しばらくボーッとしていた僕は、おぼつかない足取りで隣の部屋へと向かった。 そして、本棚の影に隠してあった1枚のキャンバスをそっと手に取った。 描き途中の、ハナの絵。 僕はそれを壁に立てかけ、少し離れたところに体育座りした。 色はまだほとんどつけられていないけど、絵の中のハナは明るく僕に笑いかける。 向日葵のような、その笑顔で……。 僕はワイシャツの胸ポケットからタバコとライターを取り出した。 タバコをくわえ、ライターをつけた。 しかし、その手はぶるぶると震え、何度やってもライターの火はつかなかった。 そして、くわえていたタバコも右手に持っていたライターも、静かに虚しく床に落ちていった。 その瞬間。 プッツリと糸が切れたように。 今までずっと心の奥に隠れていた、例えようのない悲しみが僕の中にどっと押し寄せてきたんだ。 「う……うわぁぁぁーーーーー」 僕は泣いた。 狂ったように泣き叫んだ。 ウソだろ?ハナ。 病気が治らないなんて……。 もうすぐ、死んでしまうなんて……。 頼むからウソだと言ってくれ。 僕は、ひと晩中泣き続けた。 涙も枯れ果てるまで泣き続けた。 一生分の涙を使い果たすくらい。 そして、柔らかい太陽と共に朝が訪れようとする頃には、泣きはらした僕の体から、全ての毒素が抜けたように、不思議とスッキリした気持ちになっていた。 そして、昨日は真実を受け入れることさえ困難だった僕の中に。 その困難を乗り越えた先に行き着いた、本当の意味での真実を、僕はハッキリと確証していた。 僕の中の真実の心。 その僕の中の真実が、僕に言った。 ハナが病気だからって。 もし……本当にあと残り少ない命だったとしても。 僕は、ハナが好きだ。 僕がハナを愛する気持ちは、変わらないんだ。 ハナの泣いている顔は切ない。 胸が痛い。 ハナには笑っていてほしい。 僕がハナを笑わせる。 僕がハナを笑顔にする。 僕がずっとそばにいる。 最後まで。 それが、僕にとっての幸せだからーーーーー。 僕は、ハナの絵を優しくそっと抱きしめた。
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