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あたたかい手
それから2週間後。
ハナは病院を退院して、在宅療養という道を選んだ。
ハナの両親や、病院の先生方と話し合った結果、ハナのたっての願いを受け入れようということになったのだ。
こうして、決まった日時に定期的に医師と看護師が診察に来てくれる〝訪問診療〟というカタチで新しい生活がスタートした。
ハナは車イスでのある程度の外出は許可された。
病院にいるよりはるかに自由になった。
僕は、ハナと過ごす『今』という時間を大切にしたくて。
一瞬一瞬を胸に刻みたくて、迷わず会社を辞めた。
とりあえず貯金もだいぶあったので、当面は生活していける。
そしてなにより。
ハナといるだけで幸せな僕には、不思議と怖いものなどなかった。
そんな僕に、ハナの両親が声をかけてきたのは、仕事を辞めて数日経ったよく晴れた爽やかな昼下がりのことだった。
その日、僕とハナは午後から散歩に出かけようと約束しており、部屋で診察を受けているハナを、僕は家の前で待っていた。
「トオルさん、ちょっとよろしいでしょうか……」
真っ青な空をぼんやり見上げていた僕は、声のする方を振り向いた。
そこにいたのは、ハナのお父さんとお母さんだった。
声をかけてくれたのはお母さんだ。
「あ、どうも……」
僕は慌てて礼をした。
ハナの両親に会うのは、これで二度目だ。
初めて会ったのは、ハナの病室だった。
その時は、ハナの両親もハナのことで手一杯だった様子で、お互い挨拶と少しの自己紹介をする程度でこれといった話も特にしないで終わった。
それでも、ハナの両親は『娘がいつもお世話になっております』と丁寧に、そして優しく挨拶をしてくれた。
穏やかで品があって、そしてあたたかい雰囲気が漂う素敵なお父さんとお母さんだった。
この素敵な両親から生まれ育ったから、ハナも素敵なんだな、と思った。
そんな素敵な娘の今の現実を、この両親は受け止められているのだろうか。
どんなに切ないだろうか。
抱える胸の痛みは計り知れない。
僕は胸が苦しくなった。
きっと、ハナの両親も僕と同じように、人知れず涙を流したに違いない。
親子の絆。
僕とハナの恋人の絆。
まるっきり違う、それぞれのハナとの繋がり。
しかし、溢れるハナへの想いは、カタチは違えど一緒だと、僕は感じていた。
そんなハナの両親が、僕に声をかけてきてくれた。
しかし、その表情はどこか切なく。
思い詰めたような……そんな様子に僕は感じた。
「トオルさん。お待たせしていてごめんなさいね。今、ハナは痛み止めの注射と点滴をしているの。少し時間がかかりそうなので、中でお茶でも飲んでいって下さい」
申し訳なさそうに僕を見るお母さんに、僕は笑顔で答えた。
「いえ。お気遣いなく。今日は天気も良くて気持ちいいので、ここで待ってます。ありがとうございます」
すると、今度はハナのお父さんが静かに言ったんだ。
「トオルくん……。実は、君に話したいことがあるんだ。もしよかったら、少し上がってもらえないだろうか」
「……はい。わかりました」
僕はその話の内容に察しがついていた。
もちろん、ハナのことだろう。
僕はハナの両親のあとについて、静かに家の中に入っていった。
広くて明るくてキレイなリビング。
2年前に改築したハナの家は、柔らかい明るめ木の色を基調とした、とても開放的で清潔感のある素敵な家だった。
ハナが退院してから、何度か家の前まで来たことはあるが、こんな風に家の中にお邪魔するのはこれが初めてだった。
すすめられ、リビングのソファーに座る。
ここが、ハナの家。
僕はゆっくりと部屋の中を見回していた。
すると、ふとある物が僕の目に入った。
それはピアノだった。
ずっと、ハナのピアノを聴きたいと思っていた。
でも。
その僕の願いが叶わぬうちに、ハナはもうピアノが弾けない身体になっていた。
ハナの病魔は恐ろしいほどのスピードでハナの身体をむしばんでいった。
左腕はもちろん、右腕もガンにおかされ、ハナの両腕は痛みで思うように動かなくなっていた。
ハナの病気は、容赦なくハナから大好きなピアノを奪った。
それだけではなかった。
身体の様々な機能に弊害を生じ、体力も低下し、ハナはどんどん痩せていった。
だけど、ハナの笑顔だけは変わらなかった。
僕にとって、ハナの笑顔はやっぱり向日葵のようだった。
「トオルさん。よかったら召し上がって」
お母さんがかすかにほほ笑みながら、キッチンからケーキと紅茶を乗せたトレーを持って出てきた。
2階のハナの様子を見に行っていたお父さんが戻ってきた。
「もう少しかかりそうだ。トオルくん、すまないね」
「あ、いえ。こちらこそいろいろお気遣いいただいてすみません」
僕がそう言うと、お父さんとお母さんが静かに僕の向かいのソファーに座った。
そして、少しの沈黙のあと。
お父さんが、僕に向かって深く頭を下げたのだ。
それに続くように、お母さんもすすり泣きながら深々と頭を下げ、そしてこう言ったんだ。
「トオルさん……。昨日、ハナから聞いたんです。トオルさんが、会社をお辞めになったと。あの子のために……。本当にすみません……」
泣き出すお母さんの横で、お父さんがもう一度深く頭を下げた。
「トオルくん。本当に申し訳ない。男にとって、長年仕事をしてきた会社を辞めるというのは、そう簡単にできることじゃない。これから先の再就職も簡単なものじゃないだろう。その不安もありながら、それでもハナのために仕事を辞め、あの子のためにそばにいてくれようとしてくれている君に……本当になんと言っていいのか……」
頭を下げたままの両親。
そして、僕はハッとした。
膝の上でこぶしを握っているお父さんの目から、キラリと光る涙の粒が見えたんだ。
「頭を上げて下さい。お父さんもお母さんも……」
僕はすぐさま立ち上がって、そっとお父さんとお母さんの肩に手をやった。
「お願いですから、もう謝らないで下さい。僕は、僕自身がそうしたくてやったことなんです」
僕の促しに、ようやくふたりが静かに顔を上げた。
涙を流すハナの両親。
様々な想いが交錯しているに違いない。
僕は、そんなハナの両親を見て静かに切り出した。
「……むしろ、僕の方こそお礼を言わなければいけません。僕は……今までなにをするにも中途半で。仕事にしても、恋愛にしても……。好きなことに関しても……。それが、ハナさんと出会ってからいろいろなことが変わり出して……。変わったのは、僕自身でした。ハナさんのおかげで、平凡で退屈だと思っていた毎日が、そうではなくなりました。
なんていうか……大袈裟ではなく、本当にキラキラし出してーーー。そうさせてくれたのは、ハナさんです。絵を描くことが好きだった僕に、もう一度絵を描くきっかけをくれたのもハナさんでした。彼女には、ありがとうの気持ちでいっぱいです。
僕は、ハナが好きです。ハナの明るい笑顔が大好きです。ハナといると、僕は幸せなんです」
僕の言葉に、お母さんがわっと泣き出し、お父さんがそっと目頭をおさえた。
「トオルさん……ありがとう、ありがとう」
「トオルくん。ありがとう」
僕は、笑顔で首を横に振った。
「……そういえば、トオルさんとハナ……誕生日が一緒だったわよね。来月のふたりの誕生日、是非ウチでお祝いしましょう。たくさんご馳走作るわ」
お母さんが、涙を流しながら精一杯の笑顔で僕に言った。
「ありがとうございます。嬉しいです」
僕も笑顔で答えた。
そしてそんな僕に、お父さんが黙って自分の右手を差し出した。
握手を求めるその大きな手は、小さく震えていた。
僕は、両手でお父さんの手を包んだ。
すると、お父さんはぐっと涙をこらえながら、両手で強くそして優しく僕の手を握り続けた。
その手は、とてもあたたかった。
それからしばらくしてハナの診察が終わり、僕らはハナの両親に見送られながら家を出た。
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