ひと粒の涙

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ひと粒の涙

トオル。 突然こんなことを言い出してごめんね。 少しひとりになって考えたいことがあるの。 音楽教室もお休みします。 しばらくそっとしておいてくれる? 気持ちの整理がついたら、また連絡します。 ホントにごめんなさい。 ハナから突然こんなメールがきたのは、それから2日後のことだった。 仕事中の僕のケータイに送られてきた、目を疑うようなこのメール。 僕はすぐさまハナに電話した。 しかし、何度かけても繋がらない。 迷わず、前にハナに教えてもらった実家の番号にもかけてみた。 誰も出ない。 ハナ、どこにいるんだ? これはなんだ? なにがあったんだ? ハナの言ってることが、僕にはさっぱり理解できない。 だって、だって。 つい2日前だって、一緒に焼肉食べながらビールで乾杯してたじゃないか。 一体、どういうことだ? ひとりになりたい? そっとしといてくれ? 意味がわからない。 こんな……たった数行のメールだけで、僕が納得すると思うのか。 するわけがない。 するわけがない。 僕は会社を飛び出した。 そして、手当たりしだいにハナを捜した。 なぜ、あんなメールを送ってきたのか。 一体どういうことなのか。 なにか理由があるに違いない。 ホントの理由はあとで訊けばいい。 とにかく、今はハナを捜すだけ。 ハナに会いたいーーーーー。 誰かハナの居場所を教えてくれ。 そうだ……ハナの職場の人達なら、なにか知ってるかもしれない。 僕は思いつくまま、ハナの職場へと駆け込んだ。 そして息を切らしながら、受付スタッフに、最近彼女になにか変わったことはなかったかと質問した。 すると、女性スタッフがあっさりと僕にこう言ったんだ。 「彼女でしたら、昨日辞めましたよ」 辞めた? ハナが、大好きだったこのピアノの仕事を辞めた? だって、さっきのメールには『お休みします』って書いてたじゃないか。 僕は耳を疑った。 「それ、ホントですか……?」 「ええ。突然だったので、みんな驚いていましたけど」 わからない。 ハナ、どうしてだ。 僕はなにも聞いてないよ。 「なぜ、辞めたんでしょうか……」 「さぁ……。一身上の都合とのことなので、詳しい事情はわかりませんが……」 そう言って、受付の女性スタッフが首をかしげていると。 後ろのスタッフルームのドアが開いて、長身のすらっとしたキレイな女性が出てきた。 「どうかしましたか?」 「あ、みゆき先生」 受付の女性スタッフが、後ろを振り返った。 みゆき……? 聞き覚えのある名前。 そうだ、前にハナから聞いたことのある名前だ。 職場でいちばん仲良くしている先輩がいて、その先輩といろんな話もするし、相談にも乗ってもらう、と。 優しくて大好きな〝みゆき先輩〟ーーー。 おそらくこの人だ。 この人なら、ハナのことでなにか知ってることがあるかもしれない。 僕は、受付カウンターに身を乗り出して、慌てて彼女に声をかけた。 「すみませんっ。みゆきさん……ですか?ハナのことで、ちょっとお訊きしたいことがあるんですがっ……」 彼女は少し驚いたように僕を見て、そして軽く会釈をした。 「あなたは……?」 「僕は……僕は、ハナの恋人ですっ」 その言葉に、彼女の表情が少し変わった。 そして、静かに僕に訊いてきたんだ。 「もしかして……。トオルさん……ですか?」 え? なぜ僕の名前を? 「は、はい……」 「ハナから、あなたのお話はよく聞いていたんです。ハナは、本当にあなたのことが大好きだったみたいで」 彼女が優しくほほ笑んだ。 「もしよろしければ、空いている教室がありますので、そちらでお話をお伺いします」 「あ……ありがとうございますっ」 僕は、力強く頭を下げた。 大きくて艶やかなグランドピアノ。 生徒達が使うたくさんのオルガンやピアノ。 僕は、学生時代の音楽室を思い出した。 ハナはここで仕事をしていたのか。 大好きなピアノを弾いていたのか……。 僕はピアノを見た途端、ますますハナのことが心配になり、教室に入るとすぐに彼女に質問した。 「あの、率直にお訊きしますが、ハナが今どこにいるのかご存知ですか?ホントにぶしつけですみません。実は今日、突然ハナから別れをほのめかすような変なメールが来て……。ひとりにしてくれって……。それっきり連絡が取れないんです。特に揉めてたわけでも、ケンカしてたわけでもないんです。つい2日前だって一緒に飯を食って、一緒にビールで乾杯したんですっ……。 ここを辞めたことも、ついさっき知って……」 僕はもうなにがなんだかわからなくて、正直取り乱していた。 彼女と教室に入ってからも、ウロウロと歩き回り、とてもじっとなどしていられなかった。 「ハナから、あなたの話を聞いたことがありまして。職場でいちばん仲が良くて、いろいろ相談にも乗ってもらったりもしてる優しくて大好きな先輩だと……。だから、あなたならなにかハナのことを知ってるのではと思いまして……」 そう言いながら、落ち着きなくウロウロしている僕。 そんな僕を見ていた彼女が、なにかを決心したかのようにうなずくと、静かにこう切り出したんだ。 「実は……。誰にも言わないでと口止めされていたのですが……。あなたには知っておいてもらった方がいいと思うのでお話しします。それに、こうすることが、やっぱりハナのためだと思うので……」 彼女の真剣な、そしてただならぬ雰囲気に、僕は思わず彼女の腕をつかんだ。 「口止めって……。ど、どういうことですか?ハナになにかあったんですかっ?」 彼女は、そんな僕の腕をそっと外し、そして静かにこう言ったんだ。 「……ハナの左腕の調子が悪いことは知っていました?」 「え?え、ええ……知ってました。かなり痛みがあるようだったので、僕が病院に行くように勧めました。でも、診察の結果は、ただの関節痛でした。大したことはなかったようですが……。それがなにか……」 僕は、疑問に思いながら彼女に訊き返した。 すると、彼女は真っ直ぐに僕を見つめ、そしてこう言ったんだ。 「ハナの腕は、治ってないんです。……治らないんです」 「……え?」 今、なんて。 ハナの腕は治ってない……? 治らない……? どういうことだ? なにがなんだかわからない。 だって。 関節痛って言ってたじゃないか。 だから、もう大丈夫って。 それで、あの日一緒にビールで乾杯したじゃないか。 あんなに楽しそうに笑ってたじゃないか。 もう、わけがわからない。 「どういうことなんでしょう……」 やり切れない気持ちが爆発しそうで、僕はしゃがみ込んでグシャグシャと頭をかいた。 そんな僕の横に彼女が静かにしゃがみ込み、そして僕に言ったんだ。 「ハナは、たぶん病院にいます。入院してると思いますーーー」 ……病院? ……入院? 僕は頭を上げた。 「トオルさん、ハナは病気です。とても重い病気のようです……。私も詳しくは教えてもらっていません。ただ、左腕の痛みは、その病気が原因だということは聞きました。だから、この仕事も辞めなくてはいけないと……」 ハナが、病気……ーーーーー? しゃがみ込んでいる僕の膝が、ガクガクと震え出した。 それを見た彼女が、僕の膝にそっと手を置きこう言った。 「ハナは言ってました。このことは、あなたにだけは絶対言えないって。言いたくないって。あなたのことを心配させたり、悲しませたり、苦しませたりすることだけは絶対にしたくないって。だから、あなたとはもう会えないって。あなたのことが本当に好きだから……って」 なにも言葉が出なかった。 そこには、ただひたすら愕然としている僕がいた。 全部、ウソだったんだ……。 ただの関節痛だったというあの言葉も、あの笑顔も、あの笑い声も。 全部、僕のために必死で演技してくれた、ハナの優しいウソだったんだ。 ハナ、ごめん……ーーーーーー。 僕の目から、涙がひと粒こぼれ落ちた。
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