兄の記憶

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俺には、知りたいことを何でも教えてくれる兄がいた。 歳上で、顔はあまり似ていない。 理想の兄だった。 今はもういない。 最初に思い出すのは、兄が小学校で習ったばかりの円周率を、延々と唱えていたこと。 「円の面積を求めるにはな、  半径かける半径かける3.14」 めんせきもはんけいも知らなかった。 「この円の表面がどのくらいの広さか、  この中心から端までどのくらいの長さか」 兄は丁寧に教えてくれた。 なぜそんなものを知る必要があるのか、その時は分からなかったけど、面白かった。 「例えば地球は1周すると4万キロなんだ」 「へえー」 4万キロがどのくらいなのかも分からない。 「つまり、  4万キロわる3.14で、  直径が分かる」 母が家計簿をつける時に使う電卓を持ってくる。 パチパチ叩く。 「んん〜、約1万3千キロかな?」 「いちまんさんぜんきろ」 「つまり、  ここからまっすぐ下に1万3千キロ掘ったら、  ブラジルに着くんだ」 「ブラジル?」 地球儀を指す。 「日本の裏側はブラジルだ」 「へえ〜」 「地球と太陽の距離は1億5千万キロだろ。  地球の公転軌道の直径が3億キロなら、  軌道は9億5千万キロある。  1年かかって回ってるから、  わる365日して、  1日24時間だからわる24時間して、  わる60分して、  わる60秒して…」 電卓を2人で覗き込む。 「地球は1秒で約30キロ進んでるらしいぞ」 「1秒で?」 「今この間に30キロ、60キロって」 「へえ…」 想像もつかない。 「夏休みの自由研究?」 母がお米の研ぎ汁を植木にやりながら尋ねる。 「なんでそれあげてんの?」 兄はそれを見ざとく見つける。 「栄養があるから、  ただ捨てるのも勿体無いでしょ」 「ふーん」 兄は俺を振り返る。 「水は朝早くか夕方にあげるのがいいんだよ。  暑い時間にあげると水も暑くなって、  お風呂みたいに煮えちゃうんだって」 兄はいつも俺より多くのことを知っていて。 俺はそれが悔しかった。 「自由研究は、  星座観察でもする?」 母は、兄のために買った星空図鑑を指す。 小学3年生の俺には、やや難しいと父は言ってたけど。 「俺も」 兄の真似をして頭を突き合わせ、図鑑を見る。 兄は俺の方に本の向きを直してくれた。 「夏の大三角は…」 逆さまでも読むのが上手だ。 自分の知能が、兄に一生届かないのかと思うと悔しかった。 今思えば、それはせいぜい高校くらいまで。 3歳差なんて関係なくなる時が来るものだ。 ただ当時の俺は、その年齢差がそのまま賢さの差だと思っていた。 兄の賢さがほしくて。 早く大人になりたかった。 誕生日が来るたび、兄との歳の差が2歳に縮まり、しかし4ヶ月後には兄の誕生日が来る。 永遠に追いつかない追いかけっこ。 なんて懐かしい思い出だろう。 しかし俺は、そこでふと思いとどまるのだ。 俺には兄などいないのだった。
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