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わたしは、母が好きだった。
いつでもわたしを見て微笑むと「大好きよ」と言った。
母からは不穏な意識を感じ取ったことはなかったが、そもそもこのとき既に、母には確定的な意識はなかったのではないかと思う。
母が心を病んでいるということを認識したのは、もう少し長じてからだった。
そして、母がそうなってしまった一因が、確実に父の振る舞いにあるという事も子どもながらに感じとっていた。
父は、忙しい人なのだと思う。そして、なぜわたしが生まれたのか不可解に思うほど、父は母との関りを持とうとしない。元より、家で父を見掛ける事すら少ないのだから、母と父が一緒に何かしているなどの場面を見た記憶が、殆ど無いというのも当たり前の事だろう。
そんな色々が頭の隅の方で、カラスたちの件と、母に対する父の態度への悪感情が、次第に混ぜられていった。
しかし、積極的にどうとかは思わなかったけれど、既に偶然が訪れるのであれば、それはそれでかまわないと思う気持ちは、わたしの中で飽和していた。
わたしは中学生になり、記録的な酷暑が続いたある夏の日、わたしの平素の態度に問題があったようで、父が学校に呼ばれる事となった。
その頃には、母はもうだいぶいけなくて、学校に出向くなどということは出来る状態ではなかったからだ。
学校の駐車場に止めた車の中で、わたしは一言も口を利かずに黙りこくっていた。父の声を聞くのはいつ振りだろうとか、父の所有する車に乗ったのは初めてだなとか、差し当たってどうでもいいことを思い巡らせていた。
面談をした教師に「お二人でよくお話し合いを」と言われたのだが、父も仕事の途中で来ているので、わざわざ一度家まで帰るとか何処か静かに話しが出来る場所を探すとか、そこまでの気持ちは無いように窺えた。
だがいつまで経っても、一言も発しないわたしにしびれを切らしたのか、父は一旦車の外に出て煙草を取り出し火を点けた。
父は少々恰幅がよくなりつつあったので、車の中はとても冷房が利いている。けれどわたしは、それをあまり好ましく感じていなかったので、自分一人になった今、車内の冷房を“外気”に切り替えた。いくら好ましくなくとも、入れないではいられないぐらいの酷暑だったので、冷房よりは幾分かましだろうと思ったのだ。
そして、ある違和感に気が付いた。
“外気”を取り込んだときだけ異様にガソリン臭かったのだ。わたしは機械の構造とかに詳しくはなかったが、周辺情報を精査すれば、それがどういう結果を引き起こすのかと言う想像ぐらいは出来る。
だがそれが、重大な事象に繋がる事なのかどうかなんて、確証があるはずもない。そんな事を父に告げたとして、取り合ってくれるだろうか、そして、告げるべきだろうかと思案もした。
それは、わたしが言わなければ、多分、父はこの事に気付かないのだろうと言う事だ。
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