浴衣と黒髪

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 いつもなら薄暗く湿った雰囲気の漂っているはずの、ごみごみとビルが雑居する町の路地裏に、幾つもの提灯の明かりが吊るされている。  夏祭りだ。  特に祀るものもない、ただコンクリートの塊があるだけのこの一角。都会の喧騒の抜け殻が吹き溜まっただけの、地味で埃っぽい場所だけれど、周辺住民の意向で年に一度小さなお祭りを開催することが決まっていた。  みんな灰色の日常に飽き飽きしていたのだ。  花火も囃子も盆踊りもないけれど、一日くらいは、この区画を賑やかに彩る日があってもいいじゃないか。そんな適当なコンセプトで、今日だけこの道に屋台が並ぶ。 「ねえ、ちょっと!」  友達の呼ぶ声で私は我に帰った。  りんご飴を齧ろうとした口をそのままあんぐり開けたままだった。 「もうみんな行っちゃうよ」 「あれ、そう」 「クレープ屋さん行くんだから。早く早く」  声をかけてくれたのは嬉しいけれど、私にはこのりんご飴があるし、それに屋台巡りどころではないものを見つけてしまった。  最高に美麗な髪。  提灯の暖かい色に照らされて、夜風に靡く長い黒髪。  もう、もう、物凄かった。見惚れてしまって時間を忘れた。涎が出るところだった。  誰だったんだろう──。  年上のお姉さんだった。高校生かな、大学生かな。  白い浴衣を着ていた。縦縞のシンプルな模様が却って存在感を際立たせていた。それに紅い飾り帯。  ほんのちょっぴり見えた横顔は鼻筋がすっと通っていて。  そしてあの真っ直ぐで艶やかな髪。  私は無意識に自分の前髪を直していた。  自分の髪は嫌いだ。うねうねと曲がっていて、硬くて、まとまりがない。結っていないと、すぐにばらけて広がってしまう。  それから友達連中の後ろ姿を見た。  自分たちのことしか眼中になくて、キャッキャとはしゃぎ回っている。赤やピンクの浴衣。もしくは私服で、無駄に剥き出しにした脚が目立つ。  私だって青地にピンクの花柄の浴衣で、いかにも子供って感じ。  あの黒髪のお姉さんみたいなしとやかな雰囲気には憧れる。誰か背の高い男の人と談笑していた。いいなぁ、穏やかで大人っぽくて涼やかで。胸が高鳴っちゃう。隣の男の人は誰だったんだろう。ずるいなぁ。  私は友達の輪の後ろにくっついて歩きながら、考え込んだ。こう、あるべき女性像というか、理想的な姿というか、何なんだろう。ああいう人になりたい? ああいう人の隣にいたい? ずっと見ていたい?  そんなことに夢中になって、私は結局この後何も買わなかった。  そろそろ夜も遅くなり、店じまいをする屋台もちらほら現れて、私たちは解散する運びとなった。  一緒の方面に帰る子達がそれぞれにまとまって、お互いに手を振る。  私もそのうちの一グループの尻尾になって家の方へと足を向けた、その時だった。  一瞬、視界の隅を、白い浴衣と黒い長髪が、通り過ぎていった。  私は息を飲んだ。 「……ごめん」  私は誰にともなく言った。 「財布忘れた。みんな先に帰ってて!」  待っていようか、と問う優しい友人にバイバイをして、来た道を早足で戻った。  こんなことして何になる?  話せるわけでも知り合えるわけでも何でもないのに。  でも探さずにはいられなかった。  暗く佇む巨大な建物。遠くの街明かりでくすむ夜空。心許ない小さな提灯たち。人混みは徐々に減っていく。  ──いた。  あの細い縦縞の白い浴衣。腰まで届きそうな長さの黒髪。  間違いない。  その人は──一緒にいる男性と手を繋いで、静かに笑っていた。私の家とは反対の方角へ、ゆっくりと歩を進めていた。  私、何してるんだろう。  ぼうっとその人の後ろ姿を目で追う。  顔も名前も分からない。  背丈と髪の長さだけ。私が知っているのはそれだけ。  二人の姿が見えなくなるまで、私は動かなかった。  それから、捨てそびれていたりんご飴の棒を、近くのゴミ袋に放り投げた。  踵を返した。  黒々と聳える建物の影に押し潰されそうになりながら、小走りに、一人で家の方へと向かった。  おわり
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