09

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 氷のように冷え切った曇り空だった。色味のない灰色が、この世のすべてを掠れさせる。  真昼だってのにひどく薄暗い。  俺一人分だけの靴音が反響し、遠い縁条市の全景に無慈悲に呑み込まれて消える。  ――人間一人ぶんの重みなんてその程度だ。  そんなことを教えるだけの、どこまでも錆びきったコンクリートの集合。  長く冷たい早坂神社の石畳のふもとまで降りきると、体育座りで顔を膝にうずめたおかっぱの少女がいた。  櫻坂詩織。  制服姿がひどく寒そうで、なのに微動だにしない。凍死するつもりなのかも知れない。 「風邪引くぞ」 「………………」  無言の石のようだった。詩織によく似た彫像の可能性がある。  俺は小柄な彫像の隣に腰を下ろし、二人並んで早坂神社の石畳を通せんぼすることにした。 「聞いたよ」  詩織の表情は見えない。ずっと顔を伏せたまま微動だにしないが、構わず俺は言葉を続ける。 「悪かった――無知だった。もっとミズキに負担をかけないように先回りすべきだった」  そうだ、俺はまた助けられてばかりだった。  今回だけは俺が無理してでも助ける側になるべきだったのだ。 「一度目も二度目も、結局敵を仕留めたのはミズキだ。――そうだな。二度目は呪いに捕まってどうしようもなかったが、一度目はそうでもない。そもそもあれだけ立ち位置が離れちまった時点で失策だった」  戦闘する内にミズキが十メートルほど孤立し、結果そこを狙われたのだ。そこで無理が出て、ミズキは呪いに頼らざるを得なくなった。  あるいは、そうやって各個撃破することこそが敵の策だったのかも知れないが――それならそれで、対応することは可能だったはずなのだ。 「……そんな余裕……ありませんよ。狩人の仕事はいつだってそうです」 「え」  ふと見やれば、詩織が体育座りのままこちらを覗くように見ていた。 「一歩間違えば死にます。余計なことを気にしていたら全滅です。それを言うなら、そもそも兄は戦線に出るべきじゃない。出るべきじゃなかったんです。なのに、いつまでもいつまでも無理ばかりして……」  引き絞った眉が、苦しそうだった。後悔でいっぱいだった。 「…………いえ、同じことですね。戦闘を避けたところで、兄ほど深刻化した呪いが止まることはないんです。とっくに手遅れだった。そもそも、打てる手が何もないのが呪いなんですから」  ふふ、と詩織が力なく笑った。しおらしく幽霊のようだったが、輝くような華やかさは健在だ。 「上手ですね、人に話させるの。まったく話す気分じゃなかったんですが。羽村さん、わざと落ち込んで見せたでしょう?」  嫌味と言うよりは素直に感心されているといった感じだった。質問には回答しないでおく。 「しかし――――なぁ詩織、あれは何だったんだろうな」 「アレ?」 「ミズキのやつ、どう考えたって詩織が認識できてなかっただろう。あれは――――」  見えていなかった(・・・・・・・・)。  感覚的には、突発的な失明に近い。しかし、俺のことが見えて(しおり)の姿だけが見えなくなるなんて奇妙だ。それは錯覚や病気によるものではない。  考えられるとしたら―――― 「……原因は呪いか。ミズキ自身の」 「はい。以前から時折、兄さんは私のことが視えなくなっていました」  呪いは、病だ。  いつだって得体の知れない反動が付き纏う。  そうして詩織が語り出したのは、櫻坂兄妹の、秘めてきた苦痛の物語だった。 「小さい頃、迷子になったことがあるんです。なんでもない日曜の昼に、家からそう遠くもない場所で」  詩織の透き通った目が、遠い過去を映し出す。灰の空が冷たく投影されている。 「兄は私を探すんです。町中を駆け回り、必死で声を上げて」  詩織の微笑む横顔は、皮肉そうだった。心の底から悲しそうだった。 「それを私は、ずっとすぐ後ろから見ていました。私を探す兄の真後ろを、ずっとずっと、泣きじゃくりながら追いかけていたんです」  ざらついた石畳の感触が冷たい。幽霊でも歩いていそうだと思った。 「兄貴の、後ろを……?」  それは、おかしいだろう。  迷子の妹がずっと背後にいただなんて、メリーさんじゃあるまいし。  詩織は笑う。両目は前髪に隠れて、どんな色をしているのか見えなくなる。 「……はじめは、どうして意地悪するの? って思ったんです。兄にそんな意地悪をされたことはない。だけどどうしてか、きっと私は兄さんの機嫌を損ねてしまって、だから、私を見ないふりして探し続けているんだ、って――」  幼いミズキは、詩織の方を見ようともせず、声を上げ続ける。  詩織、どこへ行った詩織。返事をしてくれ。  お兄ちゃん、私はここだよ。ここにいるんだよ。どうしてこっちを向いてくれないの?  声は届かない。  声は届かない。  あの兄はきっと体力が続く限り駆け回っただろう。  その後ろを追いかける詩織は、もっと幼くて、きっとついていくのにも必死だったに違いない。ボロボロに泣きじゃくり、息を切らしながら兄を呼び続けた姿が浮かぶ。 「――でも、そうじゃなかった。いっそ見ないふりされてる方がまだマシだった。兄は、本当に私が、私の姿が――――――見えていなかった(・・・・・・・・)んです」 「――――――――、」  認識の外。  目が見えなくなったわけでもないのに、妹の姿だけが、認識できない。 「……なんでだ? どうしてそんなことになる。あの様子じゃ声も聞こえてなかったろう」  ミズキの世界に、詩織がいない。  おかしいだろう。  呪いにしたって動機が不明で、理屈が通らない(・・・・・・・)。 「呪いは、『願望』だろ。『そうなってほしい』っていう切実な感情がなければ、現実を捻じ曲げることは絶対にない」  詩織の姿が、見えなくなって、ほしい。  そんな願望、あのミズキに限ってあるはずがない。 「……分かりません。でもきっかけだけは明白です。兄が、私を見失うようになったのは、」  ――――あの事件の、あとなんです。  そう断言した詩織の瞳は、まっすぐに俺を見ていた。  詩織を庇って、ミズキが実の父を殺害した事件。  まるで、断罪を待つかのように、お前のせいだと糾弾されるのを期待するように、詩織は俺をじっと見ていたのだ。  ……そんなこと、言うはずがないだろう。  それは違う、  違うのだ。 「なんで、見えなくなるんだろうな」  俺は白々しいことを言う。  詩織は自分を責めるように笑う。 「たぶん、恨まれているんだと思います」  そんな、的はずれな思い違いを心の底から口にしていたのだ。 「あるいは、無意識に私などいなかったことにしたいのかと。――ふふ、当然ですよね。兄の人生は私のせいで狂ってしまった」  少女らしく花のように微笑むのを、俺は痛ましい気分で見ていた。 「自分のやりたいこともやれずに、」  思わず言い返したいのを、言葉を呑み込んでこらえていたのだ。 「誰かと恋することもなく、」  違う。 「好きな食べ物さえ私にくれた」  違うんだ、詩織。 「兄は本当は弱いのに……」  ああ、その通りだ。弱いからこそ、だからこそミズキは。 「――――――――私は兄の人生の重荷(・・)だった。」  その言葉に、目を細めてしまう。  詩織は、ミズキと真逆のことを言っている。  だが、それを口にするのは、俺の役割じゃない。俺のような部外者が言うことではないのだ。  詩織はどこまでも、蝶のように軽やかに、愛らしい声で自分の心を踏みにじる言葉ばかり述べる。 「―――いまさら目を逸らしたって遅いんですよ。もっと早くに、私のことなんて忘れてしまえばよかったのに」  誰かに、傷つけてほしいようだった。  その、自分ばかりを切りつけるような穏やかな声はとても危うかった。 「……………………」  神社の前を、家族連れが通り掛かる。  楽しそうな声。  曇りのない笑顔。  そんなものを見て、詩織はふと人形のように表情を失う。  遠くなっていく両親の背中を見つめながら、初めて年相応の声を発した気がした。 「……私、子供を生んで親になる人の気持ちって分からないな」  本当に、花咲くような愛らしい表情で、残酷なことを言う。 「一方的に庇護して、守って、犠牲になるなんて。――そんなのただただ『損』だと思いません?」  どこかの、妹のことばかり話す兄貴の姿が浮かぶ。  あいつは損ばかりしていたのだろうか?  真昼日の記憶の中のその笑みに(かげ)りはない。  曇りもない。  俺とはまるで違う、太陽のようなミズキ。 「……ああ、そうだな。そればかりは俺も同意だ」  個人的には、だが。  俺はミズキのようにはなれない。  それは知っている。 「ですよね! 私、羽村さんとは意見が合うと思ってました」  なんて、目眩がするような眩しさで共感される。  嬉しそうに笑っている。  思わず流されそうになるが、心の隅では別のことを考えていた。  ――――死に場所を求めて来たのよ。縁条市に。  ――――思い詰めすぎてしまう詩織ちゃんの願いだけは、いっそ折ってあげたほうがいいんじゃないか、って。 「羽村さん?」  にこり、と写真のように整った笑みを向けられても、曖昧に笑い返すことしか出来なかった。  その美しい瞳の底がまだ俺には見えない。  ……なぁ、詩織。  お前は一体、何を願っている?
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