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   障子の穴を見つめていた。  ぼんやりとした頭で考える。この、彩度の薄れた狭い部屋。そこに偶然あいた指先程度の穴は、まるで虫かごについたひび割れのようだと思った。  虫仲間である兄は、部屋の隅で、三角座りで石のように固まっていた。  色が真っ白なんじゃないかってくらい、気力が感じられなかった。傷だらけの横顔を見ていると、かなしい気分になってくる。父につけられた傷。どうして優しい兄に、こんなことをするのだろう。どうして私たちがこんな目に遭うのだろう。  胃がキリキリして、焼け爛れてる。底の方はカビていそう。いつものことだけれど。そろそろ穴があきそうだと考えて、ふと気付いた。 「あ……」  お腹が空いているようだ。けれど、真っ当な食べ物なんてない。ホコリをかぶった冷蔵庫の中はいつもカラ。部屋を見回せば、隅の方に無造作にロールパンが転がっていた。  拾い上げて見ると、野球ボールのように固い。数日前、朝ご飯の最中に父に怒鳴られて手を滑らし、それきりここにあったようだ。  でもまだカビてない。  だったらまだましなほう。  口にしたパンは、何の味も感じなかった。 「お兄ちゃん、はい」 「ん……」  粉を散らしながら二つに割って、片割れを兄に差し出した。  独り占めなんてしない。  兄がいつもそうしてくれるように、私だって食べ物は分け合いたい。 「ああ――ありがとう。詩織は優しいな。ちょうど腹が減っていたんだ」  栄養失調でひび割れた兄の手が、私の髪を撫でてくれる。  その儚い笑みは病人のよう。  兄はいつでも私に優しかった。  どんな場所でも――どんな状況でも。  苦しくて苦しくて苦しくて、泣いて泣いて泣き続けた夜も、兄だけは私を許してくれた。  ここにいてもいいんだって教えてくれた。  こんな小汚い私でも、生きてるべきなんだ、って希望をくれた。  そんな兄のことだから、私を守って父を殺してしまった時、何も不思議だとは思わなかった。 「――――――お兄ちゃん、」  真っ黒な怪物と化した、兄の右手首から先。一瞬、正気を失っていた兄の姿。目の前に転がる、おかしなカタチになってしまった父の死体。 「ちが……違うんだ、詩織……!」  言い訳なんてしなくても、兄が正気じゃないのは分かっていた。普通の状態の人間は、背中から真っ黒な『染み』のようなものを吹き出したりしない。あんなふうに、真っ黒に燃え上がるようになるなんてあり得ない。そして、兄の力では父を圧倒することなんてできるはずもない。それができるのならとっくにそうしている。  分かってる。分かってる。そんなことはどうだっていい。それよりも、ただただ悲しくて苦しかった。 「ごめ……なさ……私の、せ、い……!」  父に締められた喉から、血が滲む。声が掠れてうまく出せない。  殴られた右目がよく見えない。  額から流れる血が鼻から入って窒息しそうになる。 「詩織!」  だけど、私はヒューヒュー言いながら泣いた。血まみれの兄と、血まみれの妹は、二人で支え合ってただただ泣いた。  気が動転してしまって、何も言えなくなってしまったけれど、酸欠で倒れてしまってそれ以上何も考えられなかったけれど。    人を殺してしまえば破滅だ。  そんなことは私でも分かる。  たとえ、ようやく怪物のような父から開放されたんだって後ろめたい安堵がそこにあったとしても、それでも兄だけはもう『普通』の人生に戻れないんだということだけは理解していた。  だから後悔した。  不思議じゃなかった、この結末が分かりきっていたからこそ。 「…………起きたか、詩織。無事でよかった」  病院で目が覚めた時、兄は疲弊しきった罪人の顔をしていた。それでも私にだけは(いまにも壊れそうな)笑みを向けてくれた。  それを見て本当に悲惨な気分になる。  ずたずたに引き裂かれて、心の中が血だらけになる。  私の涙は止まらない。  いずれこうなることは分かっていた。  分かっていたのに、なんで私は守られてばかりで、ひとつも兄を助けられなかったのだろう。  そのうちに兄は、警察よりも怖い雰囲気をまとったひとたちに連れられて、病室から出ていった。  呪いがどうとか言っていたけれど、兄が珍しく、今にも泣き出しそうな顔をしていたのがまぶたに焼き付く。馬鹿な話だけれど、いきなり死刑にされるんじゃないかと思った。そうじゃないと、兄があんな青い顔をするなんてあり得なかったから。  ……実は、その予想は的を射ていた。  人を殺した呪い持ちである兄は、  そのとき狩人という恐ろしい組織に目をつけられ、  バケモノとして処理されるか、  狩人として理性を示すかを強いられたらしい。  まだ十代の少年が相手であろうと、狩人という組織は容赦しなかった。  ここで死ぬか、血みどろの人生かを選べ。  選べないならここで死ね。  そんな選択を強いられた兄は、言うまでもなく狩人として生きる道を選んだ。  そこで死を選べる人間なんて、いるんだろうか?  ましてやそれが、愚かな妹を守るため、父を殺してしまったという状況で。自分のために人を殺してしまったのならまだ納得もできるだろうけれど、兄の場合、自分以外のために人殺しになったのだ。  それを理由に死ぬことなんて、できるはずがないと私は思う。  結果として、兄はバケモノ退治の狩人となった。  栄養失調で腕力なんてまるでなかった兄は、当然、呪いの力に頼るしかない。  父を殺したその能力で、自分と同じような呪い持ちと対峙し続ける。  時には命も奪う。  なんてことはない、要するに殺し屋みたいなものだった。  そんな過酷な人生を強いられてしまった。  私は兄を一人にすることができず、やがて自分自身も兄と同じ狩人になった。  当然だ。兄は私のせいでこうなった。少しでも兄の負担を軽減する義務がある。まるで自殺するように狩人になろうとして、兄に反対され、私たち兄妹は初めて喧嘩することになった。  だけど私は譲らない。  ぜったいに、そこだけは譲れなかった。  狩人になれないならいますぐ死ぬと脅して兄を黙らせた。  だって、一人にできるはずがない。  兄一人にすべてを押し付けて、自分だけ平穏な人生を送るなんてこと、絶対に絶対にできるはずがなかった。  ……そうして初めて、私は重苦しい顔をした総括と向き合う。  兄を狩人にした張本人。狩人になるか死ぬかを選ばせた人物は、無口で、固くて、鈍色に黒光りする鉄のような男だった。  私はきっとその人を憎んでいるだろう。  けれど不満は呑み込んで、幼い私は狩人としての人生を始める。  初めはひ弱な私は何の役にも立たなかったけれど、必死で食い下がって、自分の武器を決めて、十代序盤頃には兄と背中を預け合うことができるようになった。  初めて兄と二人で任務になった時は、本当に嬉しかった。  もちろん、狩人の任務なんて最悪なものばかりで、任務が終わる頃にはすべてを後悔したくなるほど絶望していたのだけれど。  それでも、兄と支え合って生きていく。  文字通り背中合わせで駆け抜けたのだ。  苦しいことばかりだったけれど、本当に口にも出せないような過酷なことばかりだったけれど、それでも私たち兄妹はうまくいっていたと思う。  けれど、まるで罰を与えられるように、兄は少しずつ少しずつ壊れていった。 「詩織? どこへ行った、詩織?」  ひどい時は、私の姿が視えなくなる。  理由は分からない。けれど、私は何よりそれが一番つらかった。  昔も同じようなことがあって、迷子の私を探し続ける兄を背後から見ていて、本当に心の底から一日中泣いていたのを憶えている。  おかしい。絶対におかしい。  呪いによって、精神に変調を来たしているのだと知ったのは何ヶ月かあと。  何かが滑り落ちるように、どんどん兄が戦闘中に自我を見失うようになった頃、私は兄に呪いを使わないでとお願いして。  だけど狩人の日々は過酷で、そんな私の甘えはまるで通じない任務をたくさん続けて。   気が付けば手首から先だけだった兄の黒化は、もう肩より先まで進んでいて。  兄はいつだって気さくに笑っていたけれど、私もそれなりに真っ当な妹を演じていたけれど、  どうしようもなく、  終わりの時が近づいていた。  刻一刻と絶望を数える頃、重苦しい顔をした総括に呼び出されて言われたのだ。  ――――――死に場所を探した方がいい。  無責任だ、と掴みかかりそうになった。  勝手に兄を狩人にしておいて、終わりの時が来たら勝手によそで死ねだなんて、あまりにも惨すぎる。  だけど、震える唇を噛み締めて、私は何も言わずに退室し、涙を流しながら廊下を駆けた。  壁にもたれ、座り込んで泣く。  ……私のせいだ。もとを辿れば、すべて私のせいなんだ。  そうして、  古い縁をたどって、雪音さんのもとを訪れた。  私たち兄妹の終わり。  最後の仕事を、終えるために。  
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