3人が本棚に入れています
本棚に追加
12
飴のようだったオレンジ色が、温度のない黒色に塗りつぶされていく。
アユミと並んで他愛のない話をしながら家路を歩いたが、なんとなく、頭の中ではずっと別なことを考えていた。
イメージがあった。それは荒んだ林の奥で、洋風の墓地で、まったく手入れもされていないのか枯れきっている。
そんな薄暗い場所の真ん中に立つ、疲れ果てた顔の櫻坂ミズキ。
らしくもない、その瞳に何も映していない。
妹さえも映していない。
その墓場は、ミズキが屠ってきたバケモノ――いや、バケモノと化してしまった人間たちのものだった。
ミズキと同じ、呪いに冒されてしまった人々。
ミズキはその身に宿った呪いで自分と同種の人間を何人も何人も残酷に葬って来たが、許される日はなく。
いつまでもいつまでも、無残な墓を増やし続ける墓守の男。
――――父殺しを許される日は、来ないのだ。
縁条市の宵闇は暗く、底がない。そこかしこに湧き出す幻影が、真っ黒い影の姿で歩き出す。
無害だから、放置する。
鬼ごっこする影たちとすれ違う。不吉な笑い声。線路下のコンクリートに反響する幻聴。激しい貨物列車の下をくぐり、街灯の少ない夜道を進んで、ふと川べりに出たところで強く軽やかな風が吹き抜けた。
「――――――……………」
長い長い、いやに清涼な風だった。
まるで何か、大切な何かが一瞬にして駆け抜けるよう。
夜風にしてはひどく心地よくて、それはふわりと舞い上がり、いつのまにか天高くに輝いていた優しげな月へと吸い込まれていく。
不思議な風が通り過ぎてから、ふと声を漏らしてしまった。
「――――あぁ、」
終わった。
どこかで何かがいま、決定的に終わった気がした。
それは理由のない予感だったが、急かされるように早足で夜道を進み、見慣れた家路を途中で曲げて、目的地へと急いだ。
団地を越える。
また住宅地になる。
工場が多い区画、夜は人気がない。
使い古されとうに廃棄された施設。
だんだんと人の気配が皆無になっていく。
――――そうして、櫻坂家のマンションへとたどり着いた。
変わらない白い壁面が、どうしてか病院か墓石のように冷たく見える。いきものの気配はまるでない。肝試しのようにしんと静まり返っていて、街灯がパチリと鳴る以外動く無機物さえない。
ホラー映画の始まりのよう。案の定、顔を上げれば三階の階段手すりに座る何者かが、こちらを見下ろしていた。その姿を見た瞬間に、幽霊でも見た気になった。
男だった。
髪は真っ白に染まり、白痴のようなほうけた表情で雲に覆われていく月を見上げている。
――月に興味があるようには見えないが。
もはや、あの男の視界に、輝くものはそれしかないのだろう。
「ミズキ……!」
獅子のようだった金髪も、穏やかだった笑みも見る影もないが、確かに間違いなく櫻坂ミズキだった。三階の手すりの上に座り込み、こちらを見もしないで言ってくる。
「…………おかしな建物だとは思わないか?」
異様に落ち着いた声だった。
「こんなに広いのに――探し歩いても怪物の一人もいやしない。ここはどう考えたって棲家だろう? こんなにも怪しい場所は見たことがない」
その、既に怪物として変化している手で顔を覆う。ギシリと歪んだ笑みを隠すように。
「これじゃ、まるで――――――“虫”を閉じ込めておくための虫カゴじゃないか……!」
虫カゴ。
このマンションを、虫カゴだと男は言った。
妹と一緒に暮らしているはずのこの家を。
「そうか、やっぱり俺はまだ虫カゴの中にいるんだな。怪物たちに閉じ込められて! 空がこんなにも冷たくて暗いのもそのせいだ! おい! あれは本当は空じゃなくてカゴの蓋なんだろう!?」
独白と、虚しい哄笑が響き渡る。白髪のミズキが取り憑かれたように腹を抱えて笑う。
「騙されない、騙されない騙されない騙されないぞ……!」
隣に立つアユミが、緊迫した声で言った。
「羽村くん――」
「ああ、分かってる。」
もはや正気ではない。
妹と暮らす家を虫カゴだと吐き捨てるミズキが正気なはずはない。
そも、見れば分かる。あの、全身をぞぞぞと覆っていく怪物の外皮。片腕だけだったはずのそれは、すでに、ミズキの全身を覆いつつある。
胸の内側が酸で溶かされていくようだ。
憐れみを浮かべながら、俺はキンと短刀を抜いて構えた。
「――――――終わっちまったんだな、オマエ。」
完全暴走だ。
もう、戻れない。
真っ白な髪の櫻坂ミズキは、俺を睥睨して嫌悪を浮かべた。
「なんだその、クレヨンで塗りつぶされたようなおかしな顔は」
くだらない妄言。バケモノにとっては、世界がそういう風に視えているらしい。
「お前こそ、なんだその老人みたいな真っ白な髪は」
俺の口は脊椎反射で皮肉を返す。背後で構える相方。心底、運良く一緒に行動していて助かった。
ミズキの口が肉食獣のように吊り上がり、訳の分からないことを言ってくる。
「まぁいい。ようやく見つけたぞ、怪物め」
「自分以外が怪物に見えてるのか? マジで哀れだな」
「ははは。意味が分からないな」
「分かれよ。お前は物分りのいい兄貴だったろうが」
一縷の望みを賭けて言葉を投げ続ける。
気付け、ミズキ。
お前の視界は歪んでる。
歪んでるせいで敵に見えてるだけなんだ。
「――――――…………」
ミズキの酷薄な目が、実験観察のように俺を見下ろしてくる。
「おまえ――――どこかで会ったか……?」
「!」
反応した。
いましかない、届け!
「ああそうだ、よく聞けミズキ! 俺は――!」
「くそっ……頭が、痛い……ッ!」
「聞けって!」
俺は必死だった。本気で、あの陽気だったはずの男に声を投げていたのだ。
「頭が、割れる……! 目が回る、気分が悪い……ッ!」
「しっかりしろミズキッ!」
「羽村くん」
アユミが、なりふり構わず駆け寄ろうとした俺の腕を掴む。
何か妙案でもあるのかと振り返ると、アユミは首を横に振った。
「それ以上は」
もうやめておいた方がいい、と首を横に振ったのだ。
目眩がした。
残酷な現実に、血の気が引いて倒れそうだった。
「おまえの、せいだッ!」
ミズキが、俺を罵りながら夜空に舞う。
すでに首から下は真っ黒な怪物の外殻に覆われている。全身が凶器だった。受け止めれば、一撃で平らになるのが分かりきっていた。
「くそっ!」
アユミとともに後退する。右手は腰の短刀を抜いた。だがどうする? 戦うのか? ミズキと?
――――ベンチで語り合った時の、人懐っこい横顔を思い出す。
――――神社の足元でうなだれる詩織の姿が脳裏をよぎった。
そんな油断が命取りだった。
「羽村くんッ!?」
「が――ッ…………!?」
あり得ない。真正面からの一撃を受け止めてしまった。ただの人間である俺にとって、怪物と化したミズキの一撃を受け止めることは、武器を掲げていても防御にはならない。嘘みたいに全身が吹き飛ばされ、重量に圧殺されそうになりながら団地のアスファルトの上を滑空する。
「――ッ!!!」
声もあげられず、金属製の物置に背中からめり込んで盛大な騒音を響かせた。
「が……ッ」
全身が砕けたような感覚とともに、ずるずるとアスファルトに落ちる。ぼたぼたと跳ねる血を見下ろしながら、刈られそうになった意識を必死でつなぎとめる。
――何やってる馬鹿。狩人が、情に流されるなんて。
「羽村くん、生きてる!?」
ミズキの猛攻をやり過ごしながら、アユミが強い声を投げてきた。
ここで倒れるわけにはいかない。
俺が無能だからって、犬負けが許されない場面はある。
「ああ生きてる……大丈夫だ、まだやれる……っ!」
血の滴る頭を抱えながらふらふらと立ち上がる。落葉は手放していない。あちこちが痛すぎてどうなってるか不明だが、二足歩行できるんだから御の字だろう。
「ああ……くそ……っ!」
壊滅的な激闘の音が響く。ここら一帯は狩人が管理する無人の場所なので問題にはならないが、怪力のアユミと怪物のミズキの戦闘は常軌を逸した威力になる。幾度も幾度も爆撃のように地面が揺れる。目が回って直視できていないが、街灯に映るシルエットは演舞のようで、ファンタジーのようで、あまりにも現実離れしていた。
――投棄された自動車が宙に浮く。
それは、二人にとっては空き缶を蹴りつけた程度のものだ。片手で振り払い、街灯を千切って投げ返す。唸りを上げる鉄塊がゴミ捨て場のブロック塀を容易く貫通し、自販機を掲げて突進する。腕が突き刺さり、もう片腕を突っ込んで力ずくで引き裂いた。二つになった自販機を叩きつけるが、躱され、アスファルトにクレーターを生成する。
「ち……」
逃げ出したくなる。ぼんやりと霞んだ視界だが、破壊の次元が違いすぎる。
ようやく戦闘圏内に戻った途端、俺は絶望を見る。
「な……アユミっ!?」
ミズキの怪物の腕が、アユミの首を掴み、小さな体躯を持ち上げていた。アユミが苦しげに顔を歪めている。その、首を締める黒い腕にどれほどの圧力が掛かっているのかは想像も及ばない。
だが、俺の焦りは別にあった。アユミが抵抗しようとミズキの腕を掴んでいるが、外れない。それが何よりの異常事態だったのだ。
「こ――のッ!」
アユミの瞳が決起する。膝で手首を蹴り上げ、振り落とす両手で肘の内側を打つ。かろうじてミズキの腕が緩んだ。その隙に顔を蹴り飛ばしてようやく首を締められていた腕が外れる。息をつく間もなく、二人が真正面で拳をぶつけ合った。
「――っ!」
その衝撃波だけで、俺は吹き飛ばされそうになる。
せめぎ合う、怪力の拳と怪物の拳。
――――が。そこでまたしても異常が起きる。
「嘘だ、ろ……オイ!」
アユミが、押し負けている。その顔に焦りが浮かんでいる。戦闘時は誰よりも冷静だったアユミが、ここに来て想定外の事態に目を見開いている。アユミの靴底がアスファルトにめり込む。拳は後退させられ、いまにも体勢が崩されそうだ。
怪物が、赤く輝く瞳で嘲笑を浮かべる。
――――ずん。重苦しい青い波濤が、アユミの全身を圧殺しようと駆け抜ける。
「そういう……ことかよッ!」
青い重圧。
呪いが、幾重にも幾重にも重なって、負け知らずだったアユミの怪力を跳ね返している。
あれは、呪いだ。
物理的な力ではなく、
『圧倒する怪物』という呪いそのものだったのだ。
「ぐ――うぅぅうぅぅぅぅうう…………っ!」
アユミが、歯を食いしばる。限界ギリギリの拮抗状態、そこへ、幾重にも幾重にも青い波濤は無遠慮に押し寄せる。重低音が襲うたびに、アユミの靴がアスファルトにめり込んでいく。
暴風のように吹き荒れる。
火柱のように、青い呪いが燃え上がる。
青く燃える怪物が、にたりと殺意の笑みを突きつけてくる。
限界を悟ったアユミが、左拳を後ろに引き、いよいよ切り札に手をかける。
「――――――――“六道”・」
その、決死の意思を宿した目を嘲笑うように、
「…………許せるはずガないだろう?」
白髪の男は、あっさりと身を翻し、街灯の上へと着地した。
猿のように腰を曲げて、けらけらと笑んでいる。
「……何?」
「許されない。そんなの許されるはずがない。あってはならない。絶対に、絶対にあってはならない。あるはずがない見過ごせない看過できない許容しかねる言語道断だそれだけは、それだけはいけない、」
目が、正気ではなかった。
どこも見ていない。
その歪んだ視界に、何が映されているのか想像もつかない。
全身から、ドス黒い呪いが燃え上がっていて姿も見えないほどだった。
「だから――――殺さなくちゃいけないんだァ?」
首を曲げ、飛ぶように逃げ去っていった。
待て、と叫んでももう遅い。全身を覆う怪物の外骨格は、ミズキに壊れたような跳躍力を与えていた。踏み台にされた街灯が深刻に折れ曲がっている。
「無事か、アユミ!」
座り込んでいたアユミに声を投げる。
「………………、」
自分の両手を見下ろして、信じられない、という顔をしていた。
無理もない。
俺の記憶にある限り、アユミの怪力が押し負けたことなど一度もないのだ。
「……ちょっと、まずいかも」
冗談めかして言ったが、冗談のはずがなかった。
青い重圧の呪い。
危険だ。
あれは、危険だった。
「くそ……最悪だな」
ミズキは完全暴走した。
アユミは押し負けた。
俺はミズキと戦うことを迷ってしまった。
結果、暴走状態のミズキを取り逃がすという最悪の事態となっている。
「とにかく、いったん戻るぞ。雪音さんに報告してから全速力で探そう」
「………………、」
アユミが、追い詰められた顔をしている。
気持ちは分かるさ。
いつもの闘い方が通じない。
基本が通じない。
俺たちに、勝機はあるのか……?
「……………それに」
気にかかる。
呪いを暴走させたミズキは、誰かを憎むような言葉を口走っていた。
あれは、誰に対する憎悪だ?
――――たぶん、恨まれているんだと思います。
誰かの虚しい玲瓏の声が、耳を掠めた気がした。
最初のコメントを投稿しよう!