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 夜の縁条市を、冷たい風を切って駆け抜ける。  俺、アユミ、詩織。色とりどりのネオンの光を全身に浴びるように、風の速さで前へ前へと進む。  一秒でも早く。  一歩でも前へ。  これ以上、事態が最悪の底を突き破って人世に溢れ出してしまわないように。  広大な夜の街だが、ミズキの発見は容易だった。  ――それというのも、ミズキは何を思ったのか、街外れの廃墟で三つ首さんの残り一体と戦闘を開始したらしい。なら、俺たち前線は葬儀屋(じょうほうや)の報告を信じてまっすぐ駆けるのみだ。  道のりは暗い。  このまま、永遠に辿り着かなければいいのにと思った。  俺の前を、頼もしい狼のような男の背中が走っている気がした。  背中越しにこちらを見て、屈託のない笑みを浮かべて速度を早めていく。ああ、そうだった。あの男はいつだって先陣を切って、味方の被害を少なくしようと駆け抜けたんだった。  幻影のミズキが遠くなる。  あまりに早い。  ぐんぐんぐんぐん小さくなって、鈍足な俺の目には見えなくなる頃―――― 「……………………」  レンガ造りのトンネルを抜ける。  目の前には、打ち捨てられた廃墟群がそびえ立っていた。  コケまみれの外壁からは連想しづらいが。 「…………廃校、ですか?」 「ああ。随分むかしの物なんだが、取り壊す予算もないらしくてな」  地元の財政事情などどうでもいい。ここは最前線。情報担当もとっくに退避させている。いますぐに頭上から襲われかねない状況だが、周囲に人の気配はない。  と―――― 「!!」  衝撃音とともに、打ち捨てられた校舎の屋上で土煙が上がるのを見た。続く金属音の連奏。明らかな戦闘音だった。 「いくぞ――!」  狩人三人、疾走する。理性のない相手なら罠の可能性は低い。迷うことなく廃校舎のタイルの床を踏み、階段を駆け上がり、錆びた鉄扉を破壊しながら屋上にたどり着いた。  ――――――冷たい真円の月が、俺たちを出迎える。  夜闇は昏く、月光は(まばゆ)い――――故に、怪物の姿は逆光に(かげ)る。  白髪の男は夜叉のようで、その全身を覆っていたはずの怪物の外骨格が見当たらないことに気付く。  もしかして、正気に戻ったのか――?  そんな淡い希望を抱くのは間違いだろう。よく見れば、形は人間のままだが、肌のすべてが正常ではあり得ないほどに黒化していた。  あれは、戻ったのではなく、完全に『同化』したのだ。  禍々しかった怪物の外骨格は(なり)を潜め、より完全にその男の肉体と成って馴染んでしまっている。これにて、外殻を剥がせばいいなんて浅い考えもご破産だ。 「あァ………………」  真っ白い髪に真っ黒な肌の男は、気だるそうだった。金属をこすり合わせたような声で、唸っている。 「あァァァアアアア…………あ、あぁアア嗚呼あ唖々々々々々々々々々々々々々」  その手からは、異形がぶら下がっていた。  怪談・三ツ首さんの、最後の生首が苦悶の表情を浮かべてぶらんぶらんと揺れていた。  車に踏み潰されたカエル。クレーターの真ん中に捨て置かれた首から下は、真っ平らのまま、呪いの粒子を散らして蒸発していった。跡形もない。最後に残された生首も無残に握り潰し、櫻坂ミズキだったはずの怪物は首を曲げて俺たちを振り返るのだった。 「……アァァああ……バケモノが一体、バケモノが二体…………ひどいな。殺しても殺しても湧いて出る。ほんとう、カリウドは過酷だ」  怪物は、自分を、狩人だと言った。 「そんな落書きまみれの顔をして、おかしいぞ? イかれてる。ははっ、なんておぞましいんだ、オマエたち」 「…………そっちこそ、日焼けでもしたのか。髪も、真っ白じゃねぇか」  短刀を抜く。もはや対話は不可能だと理解している。虚ろな表情に正気などあるはずがない。 「…………兄さん」  詩織の言葉にも答えない。そんなミズキが正常なはずがない。 「しかし悪くない気分だ」  たん、と錆びた給水タンクの上に立ち、怪物は天蓋を仰いで恍惚と歌った。 「暴力は楽しい。つらいこと苦しいこと、何もかも忘れさせてくれる」  その、両眼がこっちを見下ろした。  獲物を見る爬虫類の、血に飢えた無慈悲な目だった。 「こんな風に――――――なッ!!」  轟、と蹴り飛ばされた給水タンクが視界を覆う。ゼロ秒で轢き潰される。  だが、アユミが一歩前に出ている。その両手には武装。 「はッ!!」  炸裂音。  小柄な少女の全力の拳は、しかし人間外の怪力を載せた超破壊を生む。一撃で給水タンクを叩き返し、屋上にクレーターを生みながらバウンドさせあさっての方向に吹き飛ばす。 「シィ――――」  拳を振り抜いたアユミの頭上へ、ふわりと舞い上がったミズキが現れる。視線が火花を散らす。続いて、数秒で無限にも思える数の打ち合い。拳の連打が大気を殴殺し尽くし、焦げた匂いを充満させる。  「なに――?」  ミズキが不理解を浮かべる。ここへ来て、アユミは一歩も引いていない。  その両手に武装(・・)。  現代の刀鍛冶、神道ジライヤが傑作の二刀。 「――――舐めないで。前のようにはいかないから」  左右非対称の短剣に、拳を覆うナックルガード。  アユミが決戦の時にのみ持ち出す破壊双剣が、衝突の熱で細い蒸気を上げていた。 「だッ!!」  右拳のストレート。砲弾じみた一撃を、ミズキは両腕を交差して受けるが、たやすく吹き飛ばされる。遅れて暴風。俺たちまで吹き飛ばされそうになるが。 「ちぃ――――厄介なバケモノがいるな。察するに鬼の類か? あるいは巨人か」  地面に足を突き立てて感性を殺しながら、訳の分からないことを口走っている。そこへ駆け込んだアユミのもう一撃。 「そこっ!」  ミズキは背中から給水塔に衝突し、派手に建物全体が揺れる。 「おまえぇ――ッ!」  激昂した怪物が、アユミに殺意を向ける。アユミはそれを受け流しながら、短刀を投擲するモーションに入った。  地面を踏み割る――――その瞬間、ニタリとバケモノが笑んだ。  愚かな武器投げ。  叩き落として押し返すだけだ。武器がなくなれば、大きく脅威は半減するのだから。  投手と受け手の視線が交差する。  この一瞬を受け流すべく、ミズキが両腕を交差して膨張させる。――――そんな隙だらけの脳天を、頭上から狙う暗殺者がいた。 「――――――、」  無論、俺だった。  音も立てずに給水塔を滑り降りる。無意味な武器投擲などフェイクに決まっている。アユミが暴れ、俺が影のように回り込むというコンビの定石のひとつだ。  狙うは頭部。もはや迷いはない。これ以上醜悪な姿を晒すくらいならいっそ楽にしてやった方がいい。もはや引き返しようのない重力の中、俺は加速を得るべく鉄柱を蹴って下向きに跳躍する――! 「――――――羽虫が……!」 「!」  ミズキの瞳が、俺を振り返る。  だが遅い。短刀・落葉の切っ先は、間違いなくミズキの反撃より先に届く――! 「なッ!?」  だがそこで、異変が起きる。  突然の重力の鈍化。加えて、俺の全身を押しつぶすような原理不明の圧力。骨が軋んで短刀を取り落しそうになる。  原因は、ミズキから放出された、青い重圧の呪い――! 「くそ……がぁぁああああああああぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁあああああ――ッ!!!」  力ずくで抜ける。だが、青い波濤は二重、三重と押し寄せて俺をその場で停止させようとする。  五回も浴びたところで全身が空中に縫い付けられ、まったく動けなくなった。 「ふっ、ざけ――」  冗談じゃねぇ、目の前にはバケモノがいる。真っ黒い腕が振り上げられる。その手刀で俺の胴はあっさりと真二つに裂かれるだろう。  万事休すかという時に、誰かの叫びを聞いた。 「羽村さん――ッ!」  ミズキの手刀が振り抜かれる。完成した怪物の一撃は、給水塔をあっさりと切断し、おもちゃのように倒壊させた。  給水塔と運命をともにするはずだった俺は、詩織に胴を掴まれ、すんでのところで地面に転がって退避していた。 「逃がすか――」  怪物が、無様に転がった俺たちを踏み砕こうと膨張した足を振り上げる。 「させない!」  そこへ、横からアユミの一撃が飛んで来る。砲弾の拳を受け止め、押し返し、再びこの世のものでないような破壊力の衝突が再開される。  詩織は立ち上がり、美しい西洋剣を抜き放った。  その背中に俺は問う。 「本当にやるのか、詩織」  その背中は細く、華奢で、ただの年相応の少女のように思えた。  だが、少女の背中は、激しく争う兄の姿を見据えながら言った。 「…………兄は、私のせいで呪いを抱きました。」  静かな、消え入りそうな声だった。 「私を守るために父を殺しました。私を育てるために狩人として自分を犠牲にしました。私のせいで、何もかもを諦めてきました」  背負われてきた妹は、心の内に溜め込んできた自責をこぼす。 「つらいこと苦しいことばかりだったと思います。――――私には、その責任を負う義務がある。ねぇ羽村さん、ひとつだけ、お願いがあるんです」  その、自分を切りつけるような言葉が悲しかった。  鋼色の剣に映る横顔は微笑んでいる。 「ひとつだけ、たったひとつだけお願いです。私たちは、そのために縁条市に来たんです」  最悪だ。  いまさらながら、詩織が何を望んでいたのか理解してしまった。  震えてしまう。  雪音さんが気遣うはずだ。  兄が、父を殺した。  その責任が自分にあるのなら、思い詰める詩織が考える結論は決まっていた。 「どうか――――――最期の一撃(・・・・・)だけは、私に譲ってください。」  息を呑む。  その手で、倒したいと。  たった一人の肉親を、自分の剣で終わらせたいと。  そしてその罪を今度こそ自分も背負いたいと、詩織は言った。  詩織の剣が、ミズキを殺す……?  よせ、やめろ。  そんなのは正常じゃない。  正気の判断じゃない。  なのに詩織は、本当に鮮やかな花のように笑う。  恋愛映画のように微笑んでみせるのだ。 「――――言ったでしょう? 私は(・・)兄を殺したいんです(・・・・・・・・・)――って。」  止める間もなく、詩織もまた戦闘の渦中へ走る。 「くそッ!」  俺もまた、それを追うように駆け出した。  アユミとミズキの激突は異次元だった。  超高速の中に呪いが混じり、鈍化させられた瞬間にアユミは後退や横移動を混ぜて範囲から逃れている。その影響で屋上の地面は陥没し、ミシミシと軋んでいまにも崩れ落ちそうだった。  拳が激突する。  暴風が撒き散らかされる。  その鬩ぎ合いを串刺しにするように、駆け込んだ詩織が西洋剣の突きを繰り出す――! 「虫が――邪魔を、するなぁぁあぁああッ!」 「!」  詩織の突きが届くより早く、鬩ぎ合いの間合いが開く。かと思えばミズキが夜空に舞い上がり、アユミめがけて隕石の如き一撃を振り落とす。 「ぐ……ぅぅうううッ!!」 「アユミ!!」  青い重圧が吹き荒れる。ずしん、ずしんと幾重にも重なってアユミを押し潰そうとしている。  歯を食いしばるアユミの表情にはまったく余裕がない。 「死ね――潰れて死ねぇぇぇえええええええええッ!!!」 「う――あ、っ」  体勢が崩れる。  不味い、本当に潰される。 「チィ――!」  俺と詩織が、円を描いて回り込む。左右からの挟み撃ち。 「邪魔をするなああぁぁあッ!」  だが、頭上から重圧が降り注いで動きを鈍化させられる。腕が重い、体が潰れる。ビリビリと皮膚が裂けそうになっている。呼吸もままならないままに、俺は短刀から指を放した。 「!」  スローモーションの世界で、唯一重圧を無視した短刀・落葉が宙を駆け、回転しながらミズキの首筋に吸い込まれていく。  切っ先が届く――その寸前に、俺の視界はぐらりと傾いた。突然足元が消失したような浮遊感に見舞われ、声も上げられずに落下していく。  目の前には、浮遊する瓦礫の雨。  空中で、咄嗟に危険な破片を避ける。  数秒と待たず地面に墜落する。  全身を打ち据えられる。  凄まじい轟音を上げて、屋上の床が抜け、全員まとめて二階下へと崩落していた。 「ぐ……!」  激しすぎる戦闘に耐えかねたのだろう。俺の目が確かなら、落葉はミズキの首に届いていない。  周囲は瓦礫だらけ。  見回せば、俺と同じく転落した詩織がよろよろと立ち上がるのが見えた。 「詩織!」 「羽村さん……」  声は弱いが、立ち上がっている。腕を押さえているが――。 「大丈夫です。少し、瓦礫が掠めただけで」 「大丈夫って、血が――」 「止血します。問題はありません。それより――」  アユミと、ミズキの姿が見えない。瓦礫に埋もれているって感じでもない。  前方の床には更に大穴が空いていて、下の階から金属をぶつけ合う音が聞こえてまた校舎全体が揺れた。 「下か――!」  詩織のそばの地面に突き立っていた落葉を回収。すぐさま駆け出して、大穴に飛び込んでいく。  一階下に着地すると、更に苛烈を極める激突が繰り広げられていた。 「ガァ唖々あぁぁぁああああああああああッ!!」 「く……っ!」  唸りを上げて鉄骨を振り回すミズキ。たんたんと逃げるアユミを床や壁、柱まで遠慮なく破壊しながら鬼気迫る速度で追い続ける。  アユミは足を止める暇もなく、軽いステップで後退し続けているが、反撃する隙がない。それどころか、先の落下の影響かアユミの額から一筋の血が流れ落ちて左目を赤く濡らしている。 「アユミ!」  すかさず駆け込もうとするが、その瞬間にどぅんと重低音を立てて波紋が広がる。  足が、重い。 「くそっ、またかよ!」  それどころか、より重圧を増している。範囲もより広く、ミズキを中心に全員を足止めしている。たまらずアユミが転びそうになる。そこへ、遠慮もくそもない鉄骨の一撃が打ち落とされる。 「!」  ――雷鳴。  目を覆いたくなるが、土煙の隙間、座り込んだアユミがかろうじて短剣を掲げて鉄骨を受け止めているのが見えた。しかし、その鉄骨自体が歪むほどの超威力。アユミを中心にクレーターができている。だが、なんとか受け止めただけで、そこから立て直す余裕はまったくない。 「しぶといぞ……潰れて死ねぇぇええええええッ!」  嵐のように、鉄骨が幾度も幾度も叩き落とされる。工事現場でもあり得ないほどのけたたましい轟音の乱打。  ガードするアユミが、その周囲の床がどんどん沈んでいく。  加えて、アユミの全身をがっちりと押さえつける青い重圧。  あんな苦しそうなアユミの顔は見たことがない。 「この――やめろ、てめぇええええッ!」  あまりに一方的な暴力に、思わず無策で飛び出していた。  しかし、俺たちの刃が届くまでの数秒の間にも鉄骨の乱打は続く。 「ぅあ――ッ!?」  いよいよアユミの防御が崩れ、床に手をついてしまう。追撃。させるか! 「そこまでだ、ミズキ――!」 「まだいたのか、羽虫がッ!!」  横薙ぎに振るわれる鉄骨一閃。直撃を喰らえば列車事故と同じ結末になるほどの威力を、俺はくぐり、詩織は飛び越えた。  野球のフルスイング直後の体勢となるミズキの、その胴目掛けて落葉を突き出す! 「がッ!?」  俺の短刀は躱される。即座に突き込まれる膝を腕で受けるが、ほとんど防御の意味がない、しかし。 「――!?」  詩織の西洋剣は、背中に一撃を与えていた。  浅い。  だが、無傷でもない。  体勢を崩すミズキ、この好機を逃す手はない。 「うごああああッ!!」  ダメージを食らった直後だが、死ぬ気で足を動かし突進する。呼吸は捨てた。ただ、血管が破裂してでも短刀を振るえ。 「ぎッ!」  黒化した腕に、金属音を立てて弾かれる。それだけのことでこっちは骨折しそうになるが、構わず続けて突きを繰り出す。  ――脳が焼ける。酸素が足りない。数秒後に全身が破裂する。  無意識の悲鳴を押さえつけ、防がれようが躱されようが短刀を振るい続ける。  俺の斬撃は一撃として通らないが、隙間に差し込まれる詩織の剣はかろうじてヒットする。 「誰、だ……!?」  詩織の攻撃ばかりが、直撃する。  それで、俺はようやく気付いた。  さっきから、ミズキの視線はまったく詩織を捉えていない。 「もう一人(・・・・)敵がいるのか(・・・・・・)――!?」  詩織がつらそうに目を細める。  ミズキの目には、詩織の姿がそもそも視えていなかったのだ。 「くそったれ……卑怯な真似、をッ!」  だが、一方的な闇討ちが許されるのもそこまで。  ミズキが地面を強く踏み、瓦礫の破片が舞い上がる。――そこへ、変化した重圧の呪いが殺到し、礫の弾丸を雨のように頭上から降らす。  地面に突き立った一発目が、地響きを上げる。  一撃一撃が必殺の威力なのは明白だった。 「下がれ――ッ!」  肉を頭蓋を粉砕する一撃が、雨のように降り注ぐ。たまらず後退するが、詩織は退かなかった。 「ば……っ、」  一撃、二撃と防いでもう一度ミズキの横顔に肉薄する。ミズキは詩織が見えていない。弾丸が詩織の肩を掠めて血華を咲かせる。鋭い刺突で首を狙うが、その頭上に大きな塊が迫っているのが見えた。  刃を防ぐものはない。  だが、同時に詩織の頭部もぺしゃんこになるだろう。  相打ちを察して、わずかに詩織の唇が笑みを浮かべた気がした。 「は――ぐっ!?」  だが、寸前でアユミが滑り込み、瓦礫を破砕・続く蹴りは詩織を穿って吹き飛ばしていた。  瓦礫の雨は、容赦なく降り注ぐ。  俺と詩織は範囲外に逃れたが、弾雨の中を、アユミは構わず突き進んで舞踏のような死闘を演じる。  ――瓦礫を受けるたび、アユミは体勢を崩し、血を流している。  だが、俺は地面に手をついていた詩織の胸ぐらを掴んで叫びつける。 「この馬鹿――いま、死ぬ気だったろ! ふざけんなよテメェ!」 「…………」  詩織は、弱りきった顔をしていた。 「いいんです。もう、いいんです。兄を殺して終われれば、それでいい」  華やかだったはずの娘は、  見る影もない苦渋と絶望で憔悴しきっていた。 「……ずっとずっと兄は不幸だった。生まれてからずっと暴力を受け続けて、私みたいなお荷物を背負って、どこへも逃げられず、何の選択肢もないままあんなことになって……」  濡れた瞳。  その目には、真っ黒な怪物と化して怒り狂うバケモノが映っていた。 「知らないでしょう。兄さん、幼い頃に受けた暴力のせいで片耳が聞こえないんです。ずっと私に隠してたんです。そうやって何でもないふりして、当たり前のように笑いかけられるたび、本当に苦しいんです」  涙が溢れる。  ずっとずっと、詩織は自虐的に笑っていた。  何度も何度も自分の心を切りつけていた。 「救いなんてなかった。誰も兄を救ってくれなかった。そんな兄を踏み台にして、幸せを奪い尽くして生きていくなんて、できるはずない――!」  それは、詩織にしてみれば当然の感情なのだろう。  二人きりの家族でありながら、自分は傷一つなく、兄は人としてすべてを失っている。  何もかもを横取りしておいて心から笑えるほど、非人道にはなれないと詩織は言った。  そんなことをするくらいなら死んだほうがましだと言っていた。 「だから、せめて私が殺します。兄を守るために強くなったこの剣で、その罪を少しでも背負いたいんです」  そしてまた、あの悲痛な、自身をあざける笑みを浮かべるのだ。 「ついでに運良く死ねるんだったら、ハッピーエンドですよね。綺麗サッパリって感じです」  涙を拭い、立ち上がる。  まるで平静に戻ったように剣を構え、前を向くのだ。 「手伝ってください羽村さん。バケモノを倒すのが狩人の務め。でしょう?」  その華やかな笑みに、俺はいよいよ我慢できなくなった。  あんまりにも腹立たしかったもんだから、言わなくてもいいことを喋り始めてしまったのだ。 「………あのさ。自分のやりたいこともやれずにって言うけど。ミズキのやつ、無趣味だしやりたいことなんかないって言ってたぞ」 「はい――?」 「ただ詩織を守れればいいって言ってた。それが自分の幸せだって」 「――――――――、」  剣先が、わずかに揺らいだ。 「や、やめてください。いまさら、何を――」  ああ、そうだろう。  それはお前がいま、もっとも聞きたくない言葉のはずだ。 「彼女も作らなかったって言うが――ミズキのやつ、詩織と比べれば誰も可愛く思えないっつってたぞ。よかったな、シスコンだよあいつ。のろけにも程がある」 「…………何を、」 「まるで、ごく普通の幸せな兄貴(・・・・・)みたいだよな。――なぁ、どう思うよ詩織? ミズキは不幸で、その人生に何の救いもなかったんじゃないのかよ」  表情が、崩れる。  前だけを見る少女に、浅ましくて卑しい俺はどこまでも泥を塗りつける。  その間違った気高さを地に堕とす。 「好きな食べ物さえ私にくれた――? 馬鹿だろお前。ミズキはな、美味いもん見つけたら片っ端から妹と分け合いたいんだよ、それが楽しみで幸せなんだよ。――あの、狭っ苦しい家で、カビの生えたパンを分け合ってた頃とは違う。ただ平穏に、妹と一緒に美味いものを食えるようになったことが嬉しいって言ってたんだよ」  詩織は、勘違いをしている。  大きな大きな勘違いを。 「なぁ、ミズキは不幸だったのか? 本当に何の救いもなかったのか? ただただ苦しいだけの毎日を送ってきたっていうのか? 本当に? 本当に、そんな風に見えていたのか?」  あの、飄々とした男は、いつでも楽しそうで。  俺みたいな人間の毒気まで抜いてしまうほど明るかった。  くだらないバカ話で笑い合えるくらい良いやつで、なのに重い過去とか背負ってて、本当に――どうしようもないくらい、幸せそうに妹のことを話す兄貴だった。 「――命を燃やすように駆け抜けたんだ。  あいつの妹なら、救いひとつなく不幸だったなんて、間違っても口にするな。」  そうだ、そんな冒涜は許されない。  そんなのは、あいつの人生を憐れむ行為だ。 「やめて……もう、やめて…………っ」  詩織は、詩織の剣は、ガタガタと震えてしまっていた。 「なんで? そんなの、そんなこといま言わないでください……」  青ざめている。  そうだ、詩織は決して強い娘ではない。  理屈が崩れれば、声は震え、目的は定まらず、何が正しいかも分からなくなる。 「殺せなく、なってしまう…………なんにもできなくなってしまう、から」  消えてしまいそうになりながら、少女は悲痛に声を絞り出していた。 「それでも…………私、は……っ!」 「――――」  ここまでだ。  そんな破綻まみれの覚悟で為せることは何もない。何も為すべきではない。  俺は、詩織を切り捨てるように駆け出して、破壊の渦中へと飛び込んでいく。  目の前に迫ってきた瓦礫を飛び越え、天井に着地。再度跳躍して柱の側面に着地。  アユミのナックルガードがミズキの胴を打ち上げる。  返すミズキの拳がアユミの頬に突き立てられる。  互いに血しぶきを上げ、一撃ずつ容赦なく打ち込む泥仕合の様相を呈している。ただし、あの一撃一撃が本来はトラックでも跳ね飛ばすほどの超威力。弾き飛ばされて激突した壁なんて容易に穴が開くし、進行方向にあった柱は無視されて砕かれる。  ミズキの腕がアユミの首を掴んだ瞬間、俺は頭上から急襲してその肘の内側に落葉を突き立てる。 「グ……ガァあああぁぁぁぁぁあああッ!!?」  顔を握り潰される直前で離脱。ミズキが逃げる俺の脚を掴もうとするより早く、アユミの回転踵落としが怪物を打ち落とし、床ごと崩壊させて更に一階下へと舞台を移す。 「ははっ、めちゃくちゃだなアユミ」 「……、…………、」  着地して、ゆらりと立ち上がるアユミの背中を追い抜きながら声を投げたが、回答はなかった。それほどまでに余裕がなく、ぜいぜいと息を切らしている。  瓦礫を叩き上げて立ち上がるミズキの前に躍り出た俺は、複数の方向に錘を投擲する。その軌跡に透明繊維の糸。廃墟の柱に巻き付いて、蜘蛛の糸を形成する。 「いくぞ――!」  跳躍。  真正面から、怪物の頭上に向かって飛び込んでいく。  赤い殺意の眼光が俺を射る。  底なしの憎悪を突きつけてくる。 「いいかげん、潰れて消えろッ!! このバケモノが!!」  迎え撃つ怪物の腕――だが、その膨張した右腕が、真正面に飛び込んだ俺を捕らえることはない。 「!?」  空中で糸を踏んだ俺は、ミズキと接触することなく空中ジャンプでその頭上を飛び越えていく。  同時に左方向から回り込んだアユミが、その横っ面目掛けて大砲の一撃を見舞う。  弾丸のように吹き飛ばされたミズキが瓦礫の山に突っ込むが、そこで思わぬ反撃が来る。 「! 避けろアユミ!」 「!?」  大気を突き破り、亜音速で飛来したのは投擲ナイフ。ミズキの本来の武装である黒ナイフが怪物の膂力で投げつけられ、衝撃波を振りまきながらアユミの眉間を穿とうと迫る。  それを直前で躱させたのは、詩織だった。アユミの胴に飛びついて床に転がり、死の一撃を回避している。  涙で濡れた目の詩織は、立ち上がり、苦渋に満ちた表情でミズキに向き合おうとする。  詩織を視認することができないミズキは、不可解な現象に理不尽を叫ぶ。 「なんだ……なぜ、どうやって避けた!」  俺は、ミズキの背中に向かって短刀を構え直しながら、小さく声をこぼした。  唐突に理解できてしまったからだ。 「――おまえ、本当バカだよ」  ミズキは、詩織のことを見ないのではない。  見えなくなって欲しいと願ったわけでもない。  ただ、あの呪い(・・)は、妹にだけは決して向けられないのだ。  そういう風に始めから決まっていたのだ。  詩織が剣を構える。  ミズキが、怪物の腕を膨張させる。  果たして、この兄妹が殺し合う結末が正しいのだろうか? と自問しながら、俺は駆け出した。  振り返りざまの怪物の腕を掻い潜る。  スローモーションの世界で、すれ違いざま胴への一斬を加える――が、直前に重圧の呪いで鈍化させられ空振り。  頭上から俺を叩き潰そうと迫る怪物の腕をアユミが受け止め、俺はミズキの軸足を蹴りつけて後退。転ばせるまでは至らないが均衡がわずかに崩れる。そこへアユミの回し蹴りが交差法気味にミズキの顔に迫る。ガード。逆にアユミの脚が弾き返され体勢を崩す。怪物の腕がすべてを薙ぎ払おうとするが、何故かミズキの体勢が大きく崩れる。俺がミズキの脚に絡ませた糸を、アユミが歯で食いしばって引きずり上げていた。  隙だらけの横腹に滑り込んだ俺が短刀を走らせるが、ここ一番で外して浅く切りつけるに留まる。応酬は苛烈で、怪物の肘をガードして受け止めるがほぼ無意味、直撃と変わらない威力を受けて打ち上げられる。  しかし吹き飛ばされながら空中で糸を掴み取り、反転。ミズキの背中を転がり下りながらようやくまともな斬撃を加えた。 「へ――!」  無能勝利宣言、即・反撃。  おもちゃのように足首を掴まれた俺は投げ飛ばされて宙を舞う。頭から壁に激突する直前でアユミに首根っこ掴まれ、力ずくで地面に引きずり下ろされる。無様に立ち上がりながらアユミと並走、コンマ1秒もずれのないコンビの同時斬撃がミズキを急襲する。  怪物の腕による致命傷のガード、即座に腕を振り回す反撃が来る。アユミは力ずくで受け止め、俺は宙に反転して回避、即座に喉元目掛けて短刀を突き出すが割り込んできた蹴りを防ぐ手段がないため後退。追い打ちの突き蹴りで弾き飛ばされ、その隙に打ち込まれたアユミの拳をミズキが肘で受け、狩人としての練度(・・)を感じさせる武道の動きを怪物の腕で再現・アユミが痛打を受けて弾き飛ばされ、瓦礫の山に突っ込んだ。 「アユミッ!」  やばい。アユミが立ち上がれなくなっている。  アユミを守るように割り込むのが詩織。――だが、さっきから詩織はまったく戦いに加われていない。腕を震わせ、呼吸もままならずいまにも窒息しそうで、ただただ追い詰められたように無残に変貌した兄を凝視している。  ばきん、とミズキの足がコンクリートの地面を踏み割る。  ――――さて。  本当にこの兄妹が殺し合う結末が正しいのだろうか?  ミズキが一歩を踏み出す。  いまにも壊れそうな詩織が、切っ先を震わせる。  もう、いましかない。  いまここで結論を出さなければならない。  ――わたしはね、妹さんの意思を尊重してあげた方がいいと思う――。  アユミなら尊重したのだろう。  先生なら好きにさせただろう。  雪音さんは止められなかったのだろう。  正気のミズキは俺と同じ結論に達するに決まっている。  ミズキは、正しさから。  俺は、諦めの良さから。  あっさりとアユミたちとは違うその結論に到達する。 「――――ああ。そりゃ、やめた方がいいな」  ――――願いを折った方がいい。  雪音さんは、何かを願うようにそう言って、俺を櫻坂兄妹に近づけたのだ。 「……………え?」  俺は、ミズキと詩織の間に着地する。  いまにも間違った決意を固めそうだった詩織が、不理解を浮かべる。 「悪い」  俺は、軽薄に笑う。  まるで道化のように、詩織の意思や思いを踏みにじるかのように。 「あんたには、背負わせないほうがいいみたいだ」  それだけを言い残して、駆け出した。  何かを察した詩織が、白痴のような声を絞り出す。  俺は、詩織の願いを叩き壊すように、短刀を逆手に握り直してミズキの懐へと滑り込んだ。  真正面からの斬撃が当たるはずもなく、躱され、怪物の腕の反撃を受ける。  地面に這いつくばるが、まだ生きている。直撃の回避。振り落とされる脚を回避して足首に一斬、頭部を砕かれそうになりながら反転、死の腕が掠め、それでも食い下がりもう一斬。  まだ離れない。まだ離れない。  短刀の傷など大した深手ではないが、それでも着実に数を増やしていく。  後退する怪物、張り付くように距離を詰める。  まだ離れない。  打撃を掠め、地面を這いつくばってでも齧りついて斬撃を加える俺に、ミズキが激昂する。 「しぶといぞ、蛆虫がぁぁあああッ!!」  こめかみを掠めて血が吹き出す。知ったことか。短刀を持たない方の指先を鈎状に曲げ、爪で目を狙う。回避。  人体急所である喉への手刀。躱される。反撃を潜って短刀の一撃、腕に弾かれる。そこで背後の足音を聞いた気がして即座に後退、滑り込んできたアユミと完璧な呼吸で入れ違う。  アユミは、血まみれだった。  怪物の腕と一撃だけ打ち合って、左拳を目いっぱいまで引き絞る。  その構えに鳥肌が立った。 「――――――――“(りく)(どう)・”」  すでに、切り札が切られている。  アユミの奥の手が、このタイミングで発動しようとしていた。 「――――――――――――――“(しゃ)(もん)”――ッ!!」  第一撃、左拳が流星の速度で打ち込まれる。  ――――アユミの奥の手、『六道沙門』。  その正体は、アユミが考案したドミノ崩しのように連鎖する、隙間が全く存在しない六連撃だ。  前の一撃を次の一撃の助走(・・)として再利用し、際限なく速度を重ね続けるその超連撃は、理屈上一切の予備動作が存在せず、どこまでも加速・倍加し続けながら刹那の一呼吸で六撃すべてが完了する。  俺がネバーランド事件の際に模倣した、回避不能技のオリジナル。  俺の六道沙門は逃げようがないだけの劣化コピーだが、アユミのそれはまるで意味が違う。  仕組み上の『回避不能』に加え、一撃一撃に『防御不能』の怪力まで加わった、問答無用の超破壊力となって相手を打ち砕く。 「ガぁ――」  第二撃、第三撃。  スローモーションの世界で、衝撃波が重なっていく。  膨張した怪物の外骨格が弾け飛び、爆竹のように粉砕されていく。  ――――だが、いやな予感がする。  アユミに痛打を与えた時のミズキの動き。まるで熟練の狩人の動きを思い出したような、知性を感じさせる武道じみた動きだった。  あれは、何だったんだ?  まるでこの短時間に練度を上げ、いよいよ怪物の腕に経験の動きが馴染みきったかのような――  ――――異変が起きたのはその瞬間だった。  アユミが止まる。止まるはずのない六連撃が、止まっている。  何が起きた?  第四撃。  奇抜すぎて、高速すぎて読めるはずのない連撃のその第四撃目を、ミズキが読み切り、発動より早く重心を押さえつけて停止させている! 「ハ――!」  ――――本来なら止まるはずのない連撃。  それを止めたのはミズキの技量と、怪物の腕の現実離れした膂力と、加えてアユミの全身をずっと拘束し続けていた青い重圧の呪いだった。  嘲笑う怪物。加えて更なる青い重圧が足を止めたアユミを襲う。  振り上げられる怪物の腕がアユミを襲う。  終わりだ、と誰もが予感したその瞬間、  ミズキの顔から血が吹き出して大きくのけぞっていた。 「!!?」  あまりの超威力に、校舎が傾いだ。  重く響く轟音。  大気を破裂させたのは、なりふり構わないアユミの頭突き(ヘッドバット)によるものだった。 「こ、の――!」  アユミは無言。  再度、痛ましいまでの轟音がミズキの顔面を穿つ。  ふざけるな、と怒号を上げるミズキ。しかしあまりの衝撃によろよろと後退する。  ダメージを蓄積しすぎたアユミも同じく、ふらりと倒れそうになる。  だが、アユミの視線が俺を見ていた。  決定的な一瞬だった。 「悪いな――――詩織。」 「そん……な――!」  たん、と俺は駆け出していた。  ミズキは抵抗できない。  詩織が絶叫する。  短刀は銀色に煌めいて空間を走る。  願いは、壊す。  ――――――――斬、と終末の音が鳴る。
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