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16
眠るように穏やかな真昼日だった。
周囲に人の気配はなく、ただ無音で佇む白い団地マンションがあるだけ。
眩い木漏れ日が揺れている。
いつかの日と同じように、俺は木陰のベンチに行儀悪く座り込んで紙パックのジュースを飲んでいた。
涼し気な風に草花が揺れる。
隣の空席には誰もいない。
いつだったか、太陽みたく笑う狼のような男が座っていた気がするが、そんな幻影もいずれ白昼夢のように忘却の彼方に消えていく。
「………………つまらねぇな」
人生はクソだ。いいやつから順に死んでいく。
投げやりに溜息をついても何も変わらず、ただただ明日からの億劫な日々が続くだけ。
本当に明日を生きるべきだった善人たちを殺して、世には悪がのさばっている。
全員を一斉に消滅させる呪いはいまだに開発されていない。
仕方なく、世界は明日以降も現状維持で続くのだろう。
「――――――」
紙パックジュースを飲み終える頃、ベンチの隣に華奢な少女が腰掛けた。
見慣れた制服におかっぱの白い少女は、刀剣袋と、大きなカバンを背負っている。
きっと旅にでも出るのだろう。
誰だってそういう心境になることもある。
「ごきげんよう羽村さん。いい天気ですね」
「ああ。天気だけはいいな」
軽やかな声と華やかな笑みに免じて、そこだけは同意しておく。
隣に座るだけで何かふわりといい香りがした。
美少女補正、今日もよく利いている。
しばらく、俺も少女も何も言わずにぼんやりとしていた。
なんてことはない、手入れもずさんな団地の風景。
このまえ奇跡的に一室だけ引っ越してきて埋まったが、めでたく旅に出るそうだ。
これにて完全無人状態へ逆戻りである。
狩人管轄の管理地区のため、ヤンキーすら居座れない。
「あの――色々とありがとうございました」
なにやら、折り目正しく礼される。何ひとつとして役に立った記憶はないが。
「ああ。お別れは済んだのかい」
「はい」
「そうか。……別れが済んだのなら、しばらく泣いて、でもその後はちゃんと笑って生きていけよ」
それが大事だろう。
「……はい。心がけます」
何か感じ入ることでもあったのか、胸に手を当ててうなずいていた。
「ところで、ひとつご相談なのですが」
「ん? なんだ?」
ぱっと顔が明るくなる。何やら楽しい相談らしい。
すらりと刀剣袋を開封した詩織は、流れるような所作で見慣れた西洋剣を抜き放ち、
「………………」
俺が座っていた場所をさくっと穿つのだった。
咄嗟に立ち上がって回避したわけだが。
不吉な沈黙と、詩織のニコニコ笑顔が俺をますます混乱させた。
「えぇと……先生以外にいきなり刃物向けられたのは初めてだ。それ以外だと、惨殺天使般若ちゃんくらいまで記憶が遡るが」
「何のお話でしょう――と、失礼しました。つい、心を病んでしまって」
「恨んでる?」
「はい。」
そりゃ、恨まれるだろう。
詩織の願いを否定し、俺がミズキに手を下す。あの選択をした時点で、詩織との人間関係は諦めている。
せっかくそれなりに友好的な雰囲気だった気がするが、それを踏まえても今まで通りの関係性を続けられると考える方がどうかしている。
それにしたって、いきなり刺されそうになるのは想定外だったが。
「……冗談です。半分ほどは」
「そうか、半分ほどは本気か」
するりと剣をしまって、詩織は悩ましそうに頬に手を当てた。
「『背負わせない方がいいみたいだ』――本当、羽村さんの言う通りでしたね。自分で手を下したわけでもないのに、毎日毎日思い悩んでしまうんです」
「そうかい。まぁ、その性格だとそうなるだろうな」
「正直ちょっと……疲弊してきました。羽村さんには、本当は感謝してるんですけどね」
「………………」
感謝される覚えはない。
こっちは総括・雪音さんのオーダー通り仕事をこなしただけだ。
かと思えば詩織は俺を流し目で見上げてくる。
「けっこう好きだったんですよ、その、ぜんぶを諦めてる感じ。わりと私の根暗な部分と気が合うと思うんです」
「そうかい。そりゃ、微妙な褒め言葉だ」
包み隠さず悪い部分じゃねぇか。
「しかしなんとまぁ……悩ましい。ああ悩ましい悩ましい」
「また思い詰めてんのか。そりゃしんどそうだな」
「どうすればいいと思います? どうすればよかったと思います? そういうの、いつまでも考え込んじゃったりしません?」
「人間は神様じゃないんだ。完璧な結末は迎えられねーよ」
マンション前の中央線が歪んでいるのを見つけた。あれももう取り戻せない失敗のひとつだろう。
「完璧な選択もできない。当然、誰一人として『完全な人生』なんぞ送れない。いつだって思い残しと後悔があるのが当たり前なんだ」
俺は立ち上がる。
詩織は聞き入っている。
これは、つまらない戯言でしかないのだが。
「『思い詰める』っていうのはさ。――――『それをゼロにしたい』って願望なんじゃねぇかな」
それを聞いて、何かを納得したように微笑んだ。
過去を変えることを諦めるように、
さみしげに微笑んだのだ。
それからは少しだけ、つまらない雑談をした。本当に意味のない世間話や狩人談義やなんかを。
しかし、別れは一瞬だ。
「じゃあ、私はこれで」
「行くのかい」
「はい、旅に出ます。このまま縁条市にいると、いずれ本当に羽村さんを刺してしまいそうなので」
恨まれたもんである。冗談めかして声を上げて笑った詩織は、大荷物を背負ってこの真昼日の団地をあとにしていった。
その細い後姿を見送っていた。これからどこかへ向かっていく少女の背中を。
完璧な選択なんてできない、とアユミは言った。
俺も同意見だ。完璧な選択をして、完全な結末だけを得られる神様じみた人間などいないだろう。
そんなものは予知能力者だ。
誰しもが失敗と欠落だらけの人生を歩きながら、それでも、失われたものでなく、手の中に残っている輝きをこそ噛みしめるべきなのだ。
そう――
足りなくてもいい。
破綻していてもいい。
壊れやすくてもいい。
万全じゃなくてもいい。
すべてが完璧な必要はない。
そんなちっぽけな理由で、
満たされた時間が嘘になることはないのだから。
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