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06
町外れにある、廃墟ビルだった。林と土の地面を抜けた先にある、どこかの企業が打ち捨てた墓石のようなビル。土木系の工場が隣接していて、看板に「砕石場」と書かれている。
辿り着いた時、ビルの足元でミズキがじっと上階を見て立ち止まっていた。その背中にようやく辿り着く。
「ミズキ――!」
ミズキは振り返らない。獲物を狙う狼のようにじっと上空を見上げている。視線を追って顔を上げると、ビルの中腹に、浮遊する二体の亡霊がいた。二人組になった三つ首さん。長い黒髪を風に流し、憎悪を浮かべてこちらを見下ろしている。
――――異様な、不吉さ。二体の姿は、月光を反射する窓ガラスには映らない。
「おまえ、たちは」
機械のような、凍えた声で告げた。
「“狩人”、なのね」
「!」
狩人を、知っていたらしい。
秘密裏に動く狩人の存在を把握しているなんて、よほどの大御所くらいなものかと思っていたが。
「だったら、何だって言うんですか」
詩織が、前に出て堂々と睨み返すのだった。
「長引かせ過ぎました。あなたたちは、ここで仕留めます。前回のように見逃してあげることはありません」
「見逃して――あげる……?」
詩織の挑発を、不快げに嘲笑う。けたけたと、甲高い声を上げて二体の亡霊が高笑いする。
「ねぇ、そこのお兄さん」
亡霊が、ミズキに問いかける。
「その怪物みたいな右腕――――あなたも呪いを持っているんでしょう? だったら、『こちら側』なんじゃないの?」
おまえもバケモノなんじゃないのか、と。
なぜニンゲンの味方なんかしている、と問うた。
それを聞いた瞬間の詩織は危険だった。激怒を通り越して蒼白になりかけたのをミズキが押し留め、いつものように飄々と言い返すのだった。
「違いない。――でも、おまえたちとは仲良くなれる気がしないんでね。せいぜい働くさ」
ああ、ああと亡霊たちは嘆いた。哀れみを浮かべて泣くように言った。
「呪い持ちを追い詰めて武器として使う」
「本当に、狩人は邪悪ね」
それきり、廃墟ビルの窓へと溶けるように消えた。
その言葉に疑問符を浮かべるのは俺だった。
「……意味深だな。何が言いたいんだ、あいつら」
呪い持ちを使うのは邪悪?
確かに、追い詰められて発症した呪いを武器として扱うのは邪悪なのかも知れないが――あれは本当にそういう意味で言っているのか?
そういえば、いつだったか詩織も似たようなことを言っていた気がする。
呪い持ちの狩人という存在は、それ自体が『非人道』なのだと。
「羽村っち、考え事はあとだ」
「そうです。行きましょう」
ミズキが先陣を切ってドアを蹴り壊し、俺たちも戦場へと突入した。
+
ビルの中に踏み入った途端、怪物の胃の中に飛び込んだような目眩があった。
「……つ……!」
ぐるりと脳が揺れる。肉の壁が蠢動している。不気味に蠢く床は異形の舌、足首まで粘液に沈んでいる――そんな、幻覚だった。
かぶりを振って周囲を見回せば、正常な視界。ただの薄汚れた廃墟ビルのエントランスがあるだけだった。
放置された受付台以外には、一階には何もない。奥の方に見える階段まで、一見は安全そうだった。
迷わず駆け出そうとするが、そこでミズキが声を上げる。
「おっと――詩織、そこ足元にガラスがあるから気を付けろ」
「兄さん。この状況で小学生扱いしないでください」
「…………」
俺無言。ミズキの男前な笑みからは、場を和ませる冗談なのか、本気で妹を心配しているのか判別できなかった。
「詩織、窓のそばは狙撃される可能性があるから歩くな。あとそこの壁から鉄骨がはみ出してるから手を触れないようにな。ドアの近くもドアごとやられる可能性がある」
「…………」
詩織も極寒の無言になった。俺は自分の感想を訂正、アレはやっぱりただのバカ兄貴だ。短刀を予断なく構えて周囲を警戒しながら口にする。
「過保護もそこまでいくと病気だ。コンビ解消したほうがいいんじゃないか?」
「よしてくれ。俺の目の届かないところで詩織に戦わせるなんて、心臓がもたない」
「いいですね。ぜひ兄さんの目の届かないところで戦いましょう」
兄の心臓を狙う妹。そんな軽口を口にしながらも俺たちは武器を構えたまま、一階の安全確認を完了。階段に差し掛かり、上階を覗き込みながら俺は口にする。敵影はない。
「二階へ上がるぞ。誰から行く?」
「俺が行こう」
男気溢れる兄貴が前へ出る。勇敢なやつである。
階段を上がる背中に続きながら、後ろの詩織にこっそり言葉を投げる。
「……いつもこうなのか?」
「はい……いつも進んで人の盾になろうとするんです」
実にミズキらしく、それを不服そうに口にする詩織も実に詩織らしい。思うところあるといった感じだ。
二階のクリアリングも問題なく終え、三階へ向かおうと階段に差し掛かったところで異変は起きた。
「!」
視界がねじれる。遊園地の鏡の迷宮を連想する、反射映像まみれの空間にいつの間にか立っている。
「おい……なんだこれ……!」
出口はない。
いま踏み込んだはずなのに、振り返っても出口がない。
薄闇の廃墟の風景は、暗い緑の照明に塗り替えられている。ホラー映画の中にいるような違和感。呪いによって捻じ曲げられた亜空間だった。
「――詩織ッ! こっちへ来い!」
突然のミズキの強い叫び声に思わず竦む。異常事態を察したのだろう。あまりに早い判断だが、的確だった。詩織も一切反論せず従っている。
目の前には自分を映す鏡。
空間はおかしなことになっているが、俺たち三人は問題なく距離を詰めて背中合わせになることができた。油断なく武装を構えながら、俺はまだ軽口を紡ぐ。
「ずいぶんと真剣だな兄貴。そんな剣呑な顔もできるなんて知らなかった」
「悪い羽村っち、状況が悪い。この手の空間を浸食する系の呪いはろくなものがないってのが俺の経験則なんだ」
空間を塗り潰す。
それは、夜の公園の風景を地獄の呪いで塗り替える悪鬼のようなものか。
「……たしかにな。俺もその手の“最悪”を知ってるんだった」
短刀を強く握り、周囲を見回す。目眩が形になったような混沌の渦。鏡かと思っていたが、鏡ではない。ただ何もない空間が反射しているだけだ。まるで、自らの罪を直視しろとでも言わんばかりに。
脳が回るような感覚の中で、俺はかろうじて言葉を紡ぐ。
「…………どうする」
「前に進むしかないだろ、羽村っち。ここで立ち止まってもしょうがない」
はたしてどちらが前なのか、という疑問は飲み込んでおく。ただ真っ暗な世界を、刃物を構えながら一歩一歩と進んでいく。ミズキ、詩織、俺の順番。決して必要以上に離れないよう、周囲すべてを警戒しながら。切れる寸前の糸のような緊張だった。
――――何歩か歩いて、足を止めた。
「……………………」
奇妙な感覚があった。ずるりと泥で全身を撫でられたような感触がして、自分が自分でなく他人になったような違和感。何が起きたのかと周囲を見回して、ふと気付いた。
「――なんだ?」
「え?」
俺の前を歩く櫻坂兄妹が振り返ると、見覚えのないのっぺらぼうに差し替えられていた。子供の落書きのように、黒いクレヨンで顔が塗り潰されている。
…………誰だ、これは?
『――――まずは“親愛”。人同士の関係性への重みが抜け落ちる』
闇に反響するように、不吉な幻聴が聞こえた気がした。だがそれは気のせいだ。
目の前に立つのっぺらぼう達に敵意はないようだが、それでも目の前に立たれていると背筋が粟立ってくる。互いに不審に思いながら観察し合っている。
のっぺらぼうの一人が唐突に声を発した。
「お前、どうした?」
「あん? お前こそ――」
どこの誰だよ、と敵意混じりで問いかけようとして、止まる。
予想外の言葉だったからだ。
「大丈夫か? 何か、不安に思っているのか?」
――その一言で、こいつに疑いや敵意を向けるのは間違いだと直感する。
相手は真摯だった。もし真摯な相手に敵意を抱くなら、それは自分自身がおかしい。そんな『第一印象』だったのだ。
……それが、その男の人間性による奇跡のような危機回避だったことを、俺はあとになって理解する。
「なんでもない。眩暈がしただけだ」
「そうか。災難だな、お互い」
「とっとと進もうぜ」
「ああ。足元に気を付けてな」
危険な戦地でも、この男となら背中を預け合える気がした。
『――――次に失うのは安堵。どこにいても、何をしていても穏やかになんてなれない』
……不意に、胸の内側でぐつぐつと黒い感情が燃えていることに気付いた。
敵はどこへ行った? 分からない。どれだけ見回しても、闇と鏡と、曖昧な幻像があるだけ。
息が苦しい。足元が崩れ落ちるのではないかという不安感がする。わけも分からず胸が騒いでいて、前を歩く二体ののっぺらぼうの背中をしきりに確認してしまう。
「……あぁ、」
信頼すると決めたばかりなのに、そんなのは何の根拠もないという疑念が顔を出す。そうだ、やられるより前にやるのが正しい。そんな攻撃性を、切っ先を曲げるように必死で押し隠す。
ふと、のっぺらぼうのうち、少女型の方が振り返る。不安そうに俺を見ながら言った。
「……あの、聞いてもいいでしょうか?」
「なんだ。どうした」
「なんだかさっきから不安なんです。あなたも、同じですか?」
「――――」
ああ、同じ立ち位置の人間がいた。それで少しはましになる。持ちこたえることができる。
「…………大丈夫だ。一人じゃない以上、なんとでもなる」
そうだ、誰かが言っていた。
重荷ではない、
重荷なんかではなかったのだと。
「よかった――安心しました。ありがとうございます」
その、明るくなった声に、安心しているのはこっちの方だった。
不思議と胸に響いた言葉に、もしかすると気遣われていたのは俺の方だったのではないかという気さえしてくる。
――だが、変わらず、胸にガラスが突き刺さっているような焦燥感が消えることはなかった。
一体、どうなっている。さっきから何かおかしくはないか? 一体、この暗闇はいつになったら晴れるんだ。
『――――――少しずつ、失っていく。記憶は濁り、言葉は薄れ、当たり前が当たり前でなくなっていく』
ぐらり、と目眩がした。なにか、かなり危険な状況に陥っている気がした。
こんな時は、迷わず誰かに何かで連絡をすればいい――はずだったが、その手段が思い出せない。連絡すべき相手も思い出せない。頭の中に浮かぶ顔が、クレヨンで真っ黒に塗り潰されている。
「――――っ、」
顔を上げ、のっぺらぼうに声をかけようとして止まる。なんて声をかけるんだったか。言葉が出ない。言語野が痺れて機能不全に陥っている。何かが“退化”している――? そうこうしているうちに、のっぺらぼうたちの背中が遠ざかっていく。
……こんな時、決して孤立してはいけない。
そんな経験則を思い出すのは、二人の背中が遠く闇の底に消え去ってしまった後だった。
「………………………………あぁ、」
闇の中に、一人で立っている。取り残されてしまった。周囲には誰もいない。耳を刺すような静寂の中、空気の流れる音が重く響いている。
ひどく無気力で、場違いな倦怠感に苛まれていて、顔を覆う。
危険な状況なのに、心のどこかで「すべてどうでもいい」という投げやりな考えに支配されている。
呪いだ。
呪いにやられている。
心の中に浮かぶ真実も、どこか遠くて他人事。
一秒後には命を奪われるかもしれない状況に、なんとかしないといけないと思うものの、感情が疲れ切っていて動く気になれない。
こんな感覚を、いつかどこかで知っていた気がする。
「――――――これは呪いよ。私たちの呪い。私たち三人が蝕まれた、底のない希薄化の闇」
目の前に、白いワンピースの不吉な悪霊が立っている。骨のような腕脚、長過ぎる前髪に隠れて表情は見えない。
「私たちは、閉じ込められていたの。出口のない日々だった。出口のない暴力だった。骨が痛い。お腹が空いた。目に映るのは壁ばかりで、世界は狭くて、どうやったってここから逃れることなんて出来ないと理解してしまっていた」
部屋の隅でうずくまる少女。
石のような停滞。
肌を刺す空気。
心の底を冷やしていく、重苦しい空気。
そんな、追体験が、俺の精神を別物に塗り替えていく。
俺自身が石になり、肌を刺す空気を感じ、重苦しい空気に心の底を冷やされていく。
「心が三人に分裂した。だけどそんなことでは追いつかなかった。どこまでも自己を弱め、希薄化させていく孤独に、閉塞に。心は融け、」
人格は薄れ、
「思考に毒を混ぜられ、」
言葉さえ弱り、
「自分が誰だか忘れそうになった頃、」
思い出したようにドアが開けられ、怒り狂った大人が現れる。
「全身が恐怖にひきつった」
逃げ場はなく、
「避ける自由もなく、」
何度も何度も恫喝されて。
「薄れた人格さえ否定され、」
詰られ壊され、
「粉微塵になっていくのを感じながら痛み痛み痛み」
苦しみ苦しみ苦しみ
「楽しそうに骨を折られた」
それが当然の報いだと突きつけられた
「生きてることの罪を」
まだそうやって思考していることの罰を
「存在を」
生存を
「「「 ―――――――――悔いろ 」」」
心の底から絶叫し、うずくまっていた。
おそろしい。おぞましい。つめたい。くらい。
これが……一方的に暴力を受け続けるということか。その視界か。目の前に、鬼のような巨大な生き物がいる。それに媚びなければ暴力を振るわれる。心も体も壊される。卑屈になれ。泣け。詫びろ。どこまでもどこまでも惨めに自分自身を懺悔しろ。
ただただ頭の中がまっくらやみで。
そこかしこに「死の空気」を感じて。
しびれるような虚無。
溶け落ちるような重み。
次第に――――自分自身が足元から凍りつき始めていることに気付いた。
びきびきびきと白く凍っていく。
終わるのか。
でもそれさえ救いな気がした。
これ以上心がねじれるくらいなら、消えたほうがましだと思った。
いっそ終わってしまうほうが正しいと思った。
ひとつひとつ失われていくのだ。
親愛を失い、安堵を失い、記憶を失い、言葉は薄れ、当たり前が当たり前でなくなっていく。
ここから先は知りたくないと思った。
これ以上は人間には無理だと思った。
もう自分には何もできない。
怪物の腕が伸びてくる。
だけど俺にはもう何もできない。
怪物が笑んでいる。
俺は知らない。こんな、こんな底のない絶望を知らない。
溶け落ちるような感覚は知らない。
薄れていく自分を知らない。
麻痺していく常識を知りたくない。
卑屈に許しを請う自分なんて向き合いたくない。
恐怖する。
凍りついていく。
その中で。
「――――――――――え?」
怪物が、目を点にするのを見た。
「…………ミズ、キ……?」
人間性を失いきった俺の前に、いつの間にか背中が立っていた。
ぴくりとも動かない大きな背中が。
いつから立っていた? 音もなく、まるで降って湧いたようにそこにいた。
怪物が、不理解に顔を歪める。
「なんだ、オマエ――――?」
首が45度に曲がる。疑問を表現する。理解できない、だが誰より理解できる。
なぜならそれは共感だったから。
「私たちと――――同じ……?」
暴力を受け続けた人間の追体験。
人間性の喪失、無抵抗へのぬかるみ。
だが逆効果だ。
男がうなずく。
「ああ」
櫻坂ミズキにとって、この空間での体験は。
「――――――この感覚は、知ってる」
呪いを発症した原初記憶の追体験なのだから。
「!!」
目の前に、青い太陽が落ちる。
網膜を焼かれ、全身を炎が焼き焦がし、足元は砕けて崩れ落ちていく。
怪物が目を見開き、目の前に立つ『もうひとりの怪物』を直視する。
青い呪いが、火柱のように炎上していた。
呪いで出来た空間を侵食し、蹂躙し、意志持つ生き物のように食い散らかして悲鳴を上げさせていた。
最悪だった。
呪い持ちの人間に原初記憶と同じものを追体験させるなど、逆効果にもほどがある。
そんなもの、燃える焚き火にガソリンを投げ込むようなものだ。
ミズキの右腕は、
「――――――――おまえ、には」
否。
右半身は、すでに異形の真っ黒な怪物と化していた。
とうに正気など消え去っている。
それは俺の知るミズキではなく、あの日、夜の校舎で見た歪んだ笑みのバケモノだった。
「――――――殺セ、なイ」
ずん、と怪物の右足が大地を踏み割る。その反動で弾けるように宙に舞い上がり、世界のすべてを睥睨する。
「――ク、」
動けないでいる俺たちを嘲笑う、獣と化したミズキ。そいつが笑みを見せた瞬間に、全身に比喩でもなんでもなく重圧がのしかかってきた。
「ぐ――ぁ……!」
青い重圧が、空間すべてを拘束する。呪いによる圧力。すべての動きが鈍化させられ、反応が遅れた三ツ首さんがミズキの蹴りを両腕で受けて大地に沈まされる。
黒い岩のような脚に、両腕を剣に変化させた三つ首さんが苦鳴を上げながら拮抗する。しかい青い重圧は重く、ずん、ずんと幾重にも重みを増していく。
「どう――――して、」
拮抗を諦め、三つ首さんが身を翻す。体勢を崩しながらのなりふり構わない逃げの一手。その背後では、地面を穿ったミズキの蹴りが爆煙を上げる。歪んだ笑み。正気のない怪物が、哄笑を上げながら右腕を振り回す。鏡は砕け、幻聴は弾け、亀裂から現実世界の断片が覗く。
「おかしい…………おかしい、どうし、て――!」
破壊の腕から逃げながら、この空間の主はヒステリーな悲鳴を上げる。
頭を抱え、理解しがたいと絶叫する。
「どうして私たちのように、失わないの――!?」
切実なまでの問いだった。
心からの糾弾だった。
許せるはずのない例外だった。
「動けるはずがない! 動けるはずがないのよ、精神力という精神力を、何もかもを根こそぎ奪われきった状態で! 心の壊れた人間はうずくまるだけでしょう!? そこで動けなくなるのが当然でしょう!?」
当然の嘆きだろう。なにせ、あの亡霊はこの心を溶かす希薄化の闇によって、呪いを抱くほどに壊された当の被害者なのだ。
同じ闇を通ってきた同類でありながら、その実まったく想定外に活動を続けるミズキに、三つ首さんは不理解のあまり発狂しそうだった。霊の顔面が崩壊するほどの狂乱だった。
「は――――はハ、」
ミズキの右腕が、執拗に三つ首さんを追い回す。幾度も幾度も地面を抉る。そのたびに、この空間そのものがズタボロに引き裂かれていく。
悪霊は、逃げながら泣いていた。肩を裂かれ血を散らしながら、憎悪のままに怨嗟を浴びせていた。
許せない。
許せるはずがない。
自分を足元から凍りつかせ石に変えるほどの底なし闇。
ああ、俺にも理解できる。あれは精神を熔かし殺す煉獄だ。
人の尊厳を終わらせる心の牢獄。
意思や感情という原動力を根こそぎ奪われて、動き続けられる人間などいない。
痺れるような虚無、心臓が焼け落ちるような感覚。
「分かってねぇな」
怪物と怪物が激突する。
最期の一撃だった。
誰ともなしに、俺は一人呟いていた。
「ミズキは、それでも動いたんだよ。」
遠い過去、絶望しかない家庭の中で。
こんな毒沼のような虚無に苛まれながら、それでもあの男は、妹の危機にすべてを擲って動いたのだ。
自らを守るためでなく、誰かを守る瞬間にこそ行動したのだ。
黒い怪物の腕が、三つ首さんの上半身を床でプレスして叩き潰す。
夥しい量の黒血が撒き散らかされ、雨のように降り注ぐ。
蒸発しながら呪いを紡ぐ。耳の底にこびりつくような、幻聴の連なりを。
『――――そんなの、有り得ない…………』
最後まで、そんな困惑を訴えていた。
そんな残照さえ、怪物の腕は引き千切る。青い重圧が世界をプレスして蒸発させる。
――――静寂が、訪れる。危険な静寂が。
ミズキの背中は、息を切らしている。さすがに応えたのか。あまりに激しい、怪物の乱舞だった。
まだ、黒化したままの右半身。その狂気がこちらに向けられるのか、それが問題だ。唐突に、呪い持ちの狩人を武器として使うことの危うさを理解する。隣に立つものが、次の瞬間には敵になるかも知れない――――それは、あまりにも危険なギャンブルの連続を意味する。
短刀を握りしめながら、ミズキの物言わぬ後ろ姿を注視する。その姿は無心。闇の中で、さらなる闇の底を見つめているようだった。
だが、ミズキは予想外の言葉を発する。
「…………生きてるか、羽村っち」
疲れ切ったような声だった。だが、紛れもなくミズキの声だ。――バケモノなんかじゃない。
「ああ、お陰様でな。あのままいったら俺は死んでたろうな」
「…………っ、」
ミズキが息を切らす。頭を押さえ、よろめいた。転びそうになって壁に手をつく。
「おい!」
駆け出して支えるか迷ったが、演技ではないかという疑いが俺をその場に立ち止まらせた。失礼極まりない杞憂だったようだが。
「…………悪い、少し疲れた……倒れちまったらあとは頼む」
疲弊しきった声。言われて、俺は思わずミズキの体格を見た。圧倒的に俺よりデカイ。
「冗談だろ。マジでやめてくれ。」
運べるわけねぇ。
「はははっ、ひどいな羽村っち。ここは、任せろ! って格好つける場面だぜ……?」
呪いが晴れる。風景が、正常なコンクリートの表面を取り戻す。青い顔をしたミズキ。もう危険かどうかなんてどうでもよかった。駆け寄って肩を担ぎ上げる。
「――――ああ、冗談だ。あとは任せろ。どうにでもしてやる」
背後から、三つ首さんの残り一体が襲いかかってきたとしても、ミズキには指一本触れさせはしない。
しかし、不意にめまいがやってきて、直後に耳鳴り、止めに殴られたような赤い頭痛に見舞われて倒れそうになる。
「……くそが。最悪な呪いだった」
大量のアルコールに酔わされたように、頭がガンガンする。気を抜けば床が歪んで転びそうだ。直接的に人格に作用する、最低最悪極まりない精神攻撃だった。
ミズキは、うなされるように呟いていた。
「…………そうだな。よく出来てた」
「やめとけ、笑えねぇ」
本当に、笑えない。
「――そうだ羽村っち。詩織は……! 詩織はどこにいる!?」
「はぁ? 詩織なら――」
さっきから、5メートル前方で座り込んでいる。あちらも手ひどくやられたのだろう、顔に手を当て、すすり泣いていた。正気ではあるようだが、随分と泣きはらしたあとのようだった。
「おう詩織、大丈夫か?」
「……っ、大丈夫なわけ、ない、でしょう――! 相性、さいあく……っ!」
詩織にもクリティカルヒットだったようだ。当然だろう、可哀想に。震える喉で声を絞り出していた。
「ははっ、まぁ無事でよかったよ。なぁ兄貴?」
隣のミズキに笑いかける。だが、ミズキは何故だか蒼白な顔をして、絶望するように言ったのだ。
「――――何言ってる、羽村っち。詩織は? 詩織はどこだ……?」
「…………………………は…………?」
すとん、と何かが滑り落ちるようだった。
思わず凝視するが、ミズキの目は間違いなく、詩織がいるはずの前方を見据えている。その瞳に座り込む少女が映り込んでいる。なのに。
「くそ……詩織! どこだ! 無事か、返事をしてくれ! 頼むっ!」
「お――おい、落ち着けよミズキ! どうしたってんだよ!? 詩織なら、詩織なら目の前にいるだろうが!」
いまにも走り出そうとするミズキを抑え、俺は叫んだ。詩織が目を見開き、こちらを見ている。
「――――羽村っち、何言ってる? 意味が分からない。さっきからおかしいぞ」
「お、」
見ないふりされて、詩織が、ひどく傷ついた顔をする。絶対に黙っているわけにはいかなかった。
「おかしいのはお前の方だろうがッ! ふざけんのも大概にしろ!」
だが、話は噛み合わない。どこまでもミズキは正気のままで、ただただ困惑を口にするだけだったのだ。
「何言ってる。詩織はどこにもいないだろう。どういうことか説明してくれ!」
その、嘘偽りのない表情に、唐突に理解する。
「まさか、お前…………」
あり得ない。
詩織が必死で兄を呼んでる。
なのに、目の前にいるはずのミズキはいつまでも妹の姿を探し続ける。
声は届かない。
声は届かない。
「妹が――――視えて、ないのか…………?」
――――ドクン。
次の瞬間、ミズキが頭を押さえてうずくまる。
そのまま、銃で撃たれたように崩れ落ちる。
詩織が、叫びながら駆け寄ってくる。
何度も何度も兄を呼ぶが、ミズキの意識は、深い水の底に沈んでいくようにまったく戻らなかった。
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