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08
夕暮れの、早坂神社の境内で雪音さんが語り始めた一言目で俺は固まってしまった。
「呪いという力の“代償”を知っている?」
「――――――」
苦痛憎悪絶望渇望。
それら人間の怨嗟は堆積し、やがてバケモノとなって人を襲う。
呪い自体はこの目で腐るほど視てきたが、その“代償”なんて考えたこともなかった。
曖昧にしか浮かばない愚考をそのまま口に出す。
「……苦痛や絶望を代償に……は、おかしいですね。なにせ――――」
苦痛や絶望が原因になったとしても、それを燃料として消費するのなら、それは『呪いを使えば使うほど健常に戻っていく』という状態でないとおかしい。
しかし、どうだ。
これまで出会ってきた呪いの数々。
どこが、使えば使うほど清浄化されていたというのか。
「――――そう、“逆”なのよ。使えば使うほどに、より悪質さを増して深まっていく。人として『壊れていく』という表現の方がしっくり来ると思わない?」
その通りだ。
どいつもこいつも、悪化し続ける一方で、そして元には戻らなかった。
「呪いはね――――――使えば使うほど、人の『心』を奪っていくと考えられているの」
「………………、」
思わず、目を覆っていた。
なぜならそれは、筋が通っていたからだ。
自分がこれまでの事件で感じてきた印象に対して、絶望的なほどに違和感がなかったからだ。
心を、喰らう?
使えば使うほど、腐り落ちるようにバケモノと化していく?
だが、呪いに憑かれ暴走した人間は喜々として呪いを行使する。
狂気に取り憑かれた人間は、麻薬中毒のように加速度的にその穴を滑り落ちていく。
そして。
「治療方法も、ない。つまりは一方通行なのよ。発症したが最後、少しずつ少しずつ正気を削られ、その分だけより強さを増し、人として壊れていく」
人を呪わば穴二つ――呪いは、敵と、自分を殺していくのか。
どこまでもどこまでも、負の数だけを増やし続ける。
「『すべての呪いは、ひとつたりとも例外なく必ず暴走状態にある』――というのはあなたたちの先生の口癖なんだけどね。どんなに大丈夫に見えても、それは必ず術者本人を食らっているの。見えないくらい少しずつ自分自身を削っているの。そんなのは正常じゃない。異常現象が、正常なはずがなかったのよ」
それは、ファンタジーRPGの魔法やなんかとはわけが違う。
魔力なんていう、架空のエネルギーを消費して魔法を発動する。数値化されたそれはバケツに汲まれた水のように、魔法を使った数だけ目減りしていくが、大抵は宿屋で眠れば回復するようになっている。
それに対して、呪いには破滅が伴っている。
回復などない。
ただただ人間の精神を食わせながら、人として『終わる』までは正気で呪いを発動し続ける。それを過ぎれば呪いに支配され、『バケモノ』となって死ぬまで狂気のままに呪いを発動し続ける。
――――呪いは使わないで。
詩織の願いはもっともだ。そんな自殺じみた力、間違っても使うべきではない。
「呪いを得た人間はね、羽村君。程度の差こそあれ、みんな破壊衝動や殺人願望を抱くんですって。理性で抑えつけているけれど、おかしな幻聴が聞こえて、惑わされるの。そんな、自分の中に自分のものではなかった狂気が生まれて、少しずつ少しずつ大きくなっていくらしいの」
「そんなの……救いようがないじゃないですか……」
ミズキの姿を思い出す。
あれは、悲劇的なまでの苛烈さだった。
――――そこで俺は、唐突に思い至る。
震えた。
あまりの非人道。
あまりの理不尽。
あれほど詩織を泣かせておいて、それでも正当化される狩人の『秩序の味方』という。
「使えば使うほど理性を失う。狂気に墜ちる。行使した分だけより“バケモノ”に近づいていってしまうのよ。そして、最後には――――『完全暴走』という状態に到達する」
黙れ。
飲み込め。
そんな風に、歯を食いしばって雪音さんに手を伸ばすんじゃない。
どれほどミズキの粗野な笑みを好ましく思っていたって、それを雪音さんにぶつけていいはずがない。
俺は拳を握りしめ、壁に押し付けて、雪音さんに問うていた。
「ミズキは……いつか必ず『自滅』することを分かっていながら、狩人になったんですか……?」
違うだろ、そうじゃない。
問題の本質はそこではない。
そんな結末が確定していながら、しかしミズキは狩人として在り続けることが許された。
それが本人の意思だったとしても、本人の希望だったとしても――それでも、それを『都合がいい』として許容して受諾した奴らがいるのだ。
こき使って終わらせた組織があるのだ。
「いつか自滅すると知っていながら、狩人は、ミズキを酷使したんですか――ッ!?」
歯噛みする。
いまにも崩れそうな詩織の姿を思い出す。
ミズキは目を覚まさない。
覚まさないのだ。
「――――――――そうよ。狩人が、ミズキ君を使い潰した」
胸の内側に、真っ黒い感情が染み出していく。
毒の感触。
膝が震えそうになる。
「これが、呪い持ちの狩人の真実よ」
終わりを確約された者に、終わりを加速させながらバケモノを狩らせ続ける。
――――非人道だ、と誰かが言っていた。
悪しき狩人たち、呪い持ちを追い詰め武器として使う。
なんて醜悪なんだと誰かが糾弾していた。
あれは、あれこそが真実だったのか。
「呪い持ちの狩人はね――――みんな、自分の将来を犠牲にして戦っているのよ……」
その、影のある笑みに理解する。
雪音さんは――雪音さんこそは、その事実を誰より重く受け止めているのだ。そして思い悩んできたのだ。
「……美空や銀一を狩人にしないのはそれが理由ですか」
不思議だった。俺のような無能力者よりも、よほど戦闘向きの二人組。
けれど、雪音さんはあいつらをあくまで情報担当の非戦闘員として扱い、狩人として前線に配置換えすることは決してなかったのだ。
「そうね、それも理由の一つよ」
そして、縁条市狩人総括は……俺たちのリーダーは、悲しい笑みを浮かべて空を見たのだ。いまにも雪が降りそうな寒空を。
「できるわけ、ないでしょう――? 美空ちゃんも銀一君も大切な仲間よ。それを、呪いが有用だからといって将来を犠牲にさせて消耗品のように使い潰すなんて、そんなのは絶対に間違っている」
雪音さんの声は、まっすぐで。
それはきっと秩序の味方としての効率性を下げている。だが、それでも、雪音さんの選択が正しいに決まっている。
「あなたたちの先生のことも、後悔しているのよ」
――先生。
七重の呪いを操る『七式の魔女』は、呪いを行使することに禁止令を出されている。
「もっと早くに気付くべきだった。もっと早くにやめさせるべきだった」
珍しく、先生の話になっても軽口ひとつない。
本当に後悔しているんだろう。雪音さんと先生は、かつては肩を並べる狩人の相棒同士だったと聞いている。
「…………ミズキ君はね、随分前に、どうすることもできないまま狩人にさせてしまったのよ」
雪音さんは額に手を当て、思い悩むように言った。
「本当はどうにかしたかった。でも、ダメだったのよ。――櫻坂家で起こった事件のことは、聞いている?」
「…………はい」
殺されそうになった詩織を守って、ミズキが呪いを発動し、父を殺した。
「事情はどうあれ、ミズキ君は『人を殺した』のよ。どう見たって情状酌量以外あり得ない状況だったとしても――それがたとえ裁判で正当防衛と認められたとしても、それでも、秩序のために呪いを殺すだけの狩人には関係がない」
そうだ。
一度発症してしまった呪いの危険性を、俺はもう知っている。
「過ぎたこととはいえ――随分と、あっちの総括に文句を言ったものだわ。けれど、狩られてしまうことを防ぐために、狩人にさせるという判断は間違ってない。何より、ミズキ君自身がそれを望んでしまったのよ」
詩織を守り、狩人として生きていく。
例えそれが、自分の将来を犠牲にする選択であったとしても。
父を殺した天涯孤独の少年は、そんな、自罰のような道を選んでしまったのか。
――詩織が気に病むわけだ。
「そして…………終わりの時は、来てしまった」
その暗い声に、理解する。
金槌で殴られたような目眩の空白。
世界が沼に沈んでいくようだった。
「――まさか」
「ええ、そのまさかよ。長い長い時間を狩人として戦い続けて――もう熟練と呼べるほどに狩人として在り続けて。ミズキ君の残された時間は、あっという間に燃え尽きてしまった」
ミズキは目を覚まさない。
意識を失い、昏睡状態にある。
それは、こういう意味だったのか。
「――――――もう、ミズキ君は終わりかけているのよ」
将来を犠牲に。
それは、途中で人間としての時間が終わるという意味だ。
心を失いバケモノになるという意味だ。
「死に場所を求めて来たのよ。縁条市に。」
――凍てつく風が、神社のすべてを撫でていく。
死に果てていく夏と冬の狭間。
荒れ果てた墓地の真ん中に立ち尽くす、疲れ切ったミズキの幻覚を視た。
「どうしようも……ない、んですよね」
「ええ。どうすることもできない」
あの、粗野な笑みが浮かんで消える。
裏表のまるでない、どこにも毒気のないミズキに終わりの時が近づいている。
――呪いを消す手段なんて、無いのだ。
「でもね、羽村君。私はずっと考えているの。例えここでミズキ君が終わることになったとしても――それはどうしようもないとしても、思い詰めすぎてしまう詩織ちゃんの願いだけは、いっそ折ってあげたほうがいいんじゃないか、って。」
「…………詩織の、願い……?」
それは、何だ。
あの娘は、兄の終わりに、何を望んでいるっていうんだ。
「……雪音さん。なんで俺を?」
先生でもアユミでもなく、どうして俺を櫻坂兄妹に近付けたのか。
その意図を、いまここで確認しておくべきだと思った。
ああ、と雪音さんはうなずいて、やはり俺が考えている通りの回答を口にするのだった。
「今回はね――――諦めの早い羽村君こそが、もっとも正しい結論を出してくれるような気がしているの」
はぁ、と思わずため息が漏れた。頭を抱えるしかなかった。頭痛がしてきた。
「くそ……貧乏くじ極まりねぇっすよ、それ」
「そうかしら? ……まぁ、そうでしょうね」
――だって、櫻坂兄妹はどっちも揃ってどうしようもなくいいやつなのだ。
その終わりに立ち会うのも、願いを折って泣かせるのも――――どっちも死ぬほどつらいに決まっている。
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