ペットボトルボウリング①

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ペットボトルボウリング①

「お兄ちゃん」  誰かが俺を起こす声がする。 「お兄ちゃん」  その声はもう一度聞こえた。  ガラス戸の近くで寝ていた俺は、ゆっくりと目を開けた。青空と雲が見える。太陽は屋根に隠れて見えていなかったが、それは空のてっぺんに向かってどんどんと昇っているはずだ。冷房が効いていなければ、俺は熱中症でくたばっていただろう。 「お兄ちゃん」 「ああ」 「お兄ちゃん、やっと起きた」  弟は短パンにTシャツという夏にふさわしい格好でそこにいた。もちろん俺も同じ格好をしている。違うのは弟のTシャツはトリケラトプスがプリントしているやつで、俺のTシャツは無地だということだ。  理容室に行く俺と、母にバリカンで丸坊主にされる弟は、全く似ていない。叔母さんや近所の人たちは弟を見て、お兄ちゃんの小さい頃にそっくり、と言うが、そんなのでたらめだ。なぜなら弟の方が、顔立ちが整っている。残念ながら、それは明らかだ。 「何の用?」 「お兄ちゃん、ペットボトル持ってない?」 「ここにあるけど。ひとつ」 俺は弟にソーダが半分残っているペットボトルを見せた。 「中身捨てていい?」 「まだ飲んでる」 「じゃあ、他のペットボトルちょうだい?」 「他のペットボトルなんてないよ。お母さんが持ってるだろ」 「お母さん、昨日捨てたって」  俺は冷蔵庫に貼ってあるゴミ捨てのスケジュール表を思い浮かべた。そういえば昨日は、リサイクルゴミの日だったな。 「何に使うの? ペットボトル」 「夏休みの宿題。工作のやつ」  弟はいつの間にか、ソーダの入った俺のペットボトルを持っていた。 「小学生はそういう宿題あるよな」と俺は言いながら、ペットボトルを奪い返した。 「お兄ちゃんはないの?」 「ないよ。昔はあったけど」 「昔は何を作ったの?」 「紙粘土で帽子型の貯金箱を作った」 「なに、そのつまんないやつ」 「いや、面白いだろ」 「つまんないよ」 「そうだな。つまんないな」  俺はペットボトルのキャップを開けて、ソーダを飲んだ。ぬるくなった甘い液体は、喉を僅かにチクチクさせるだけだった。もういらないな。 「ペットボトルいる?」 「いる」  弟は俺からペットボトルを受け取った。 「何作るの?」 「秘密。でも、面白いやつ」 「へぇ。作ったら見せてよ」 「うん。見せる」と弟は言って、残りのソーダを飲み始めた。  風鈴がチリンと鳴った。 「ああ、あとね、お兄ちゃんにお願いがあるんだけど」 「お願い?」 「うん。お願い」 「なに?」 「ペットボトル探してきて」  何を言っているのだろうか。 「ペットボトルあげたじゃん」  俺はソーダの入っていたペットボトルを指差した。 「まだ足りない。もっといる」 「どのくらい?」 「あと五本くらい」 「それを探してこいと?」 「うん。暇そうだし」 「嫌だよ」と俺は再び寝ころんだ。「自分で探してこいよ。俺はごろごろしたいんだよ」 「お兄ちゃん、お願い」と弟は近付いて言った。「一生のお願い」 「一生ねえ……」と、俺はちらりと弟を見た。純粋無垢で、無防備だった。「隙あり!」  俺はそう言い終わるか終わらないくらいで、弟の後ろにすばやく回り込み、わき腹をくすぐった。弟がわき腹を庇うため、腕を体に付けるのを見て、俺は首をくすぐり、次にそれを防ごうとする弟の動きを見て、足の裏をくすぐった。 「や、やめ」と弟は声にならない声で笑い転げた。  弟の弱いところはお見通しだ。なぜなら、俺の弱いところとほぼ同じだからだ。  二十秒くらい続けると、慣れたのか笑い声は小さくなった。くすぐるのを止めると、弟は涙を拭い、息を整えた。  俺は考えていた。これが妹だったらどんなに可愛かっただろうと。逆に俺が姉だったら、それもまたよかったのかもしれない。だが、こいつは弟で、俺はどう考えても兄だ。弟はどうしようもなく弟で、どうしようもないやつだ。 「……仕方ない。暇だし、そこらへんぶらぶらしてくるよ」 「えー? お兄ちゃん出かけるの?」 「ついでにペットボトルも探してくるよ」 「本当に?」 「本当」 「やった!」  弟は喜ぶと一目散に居間から出て行き、台所にいる母に「お兄ちゃんがペットボトル探してきてくれるって」と報告した。 「よかったねぇ」と母が言った。 「うん。お兄ちゃんは僕のスレイブだからね!」 「すれいぶ?」 「うん。スレイブ」  まったく、なんてやつだ。兄である俺は、弟の奴隷らしい。  そう思いながらも俺は自室に戻り、Tシャツを着替えた。そして机の上に置いていた腕時計と財布、携帯を持ち、出かける準備を整えた。  自転車に乗るため車庫に行くと、そこには弟がいた。 「なにしてんの?」 「お兄ちゃんに袋渡そうと思って」 「なんの袋?」 「ペットボトル入れるための袋」 「ほお」 「変な顔」と弟は言った。 「お前はずるがしこいやつだな!」  そう捨て台詞を吐きながらも、俺はビニール袋を貰い、自転車にまたがった。道路へ出る前に左右を見て安全を確認し、海の方へと漕ぎ出した。 「いってらっしゃい!」と大きな弟の声が後ろから聞こえてきた。「ペットボトル、五本だからね!」  五本か。俺はそう思いながらも、少しでも兄らしくいようとしている自分を不思議と気に入っていた。  空に雲は少なく、太陽はずっと上にいた。夏の空気が全身を包んだが、不思議と風は冷たかった。とはいえ、日焼けは確実だろう。 十分ほど自転車を漕ぎ、堤防沿いの道へ出た。堤防に遮られ海は見えないが、天変地異が起こっていない限り、存在しているはずだ。  海へ降りていける入口を見つけると、自転車を停め、階段を降りた。  だが、海はそこになかった。天変地異ではない。干潮の時間らしかった。海は遠くの方にあって、いつもは海水に隠れている泥底がそこにあった。  地元の海はこういう海だった。海という言葉から想像する綺麗さはない。ああ、沖縄に行きたい。沖縄の青い海で泳ぎたい。いや、それは想像だ。沖縄の海が本当に青いのかどうか俺は知らない。  この海を見ても、特に際立った感情がこみ上げてくるわけじゃない。でも、やはり地元というのは強い力を持っている。この海が何事もなく、ここにあればいいなと思っている。  俺は階段に座り、ぼーっと海を見ていた。果たして、この泥を海と呼んでいいものだろうか、そんな事を考え始めたときにペットボトルのことを思い出した。ご主人様のためにも探さなきゃ、そう思い立ち上がり、海を眺めながら堤防沿いを歩き始めた。  しばらく歩いていると、堤防の向こうからエンジン音が聞こえてきた。車は停まったらしく、俺の横からエンジン音が移動しなくなった。すると、ドアが閉まる音がした。俺はなんとなく、堤防を背にしてその場に屈んだ。上を見上げると手が見えた。どうやら堤防に登ろうとしているらしかった。 「いやぁ、悩むことじゃあないと思うよ」と男が言って、海を背にして堤防に座った。 「そうかなぁ?」と今度は女の声が聞こえた。 「そうだよ。好みだよ」 「でも、みかんの皮嫌いでしょ?」 「嫌いじゃないよ。好きでもないけど」 「うーん」  何を悩んでいるんだろう。恋人同士かな。  なんとなくその場から動きづらくなった俺に、夏の日差しが迫ってきた。帽子を被ってくればよかったかなぁと思い、何気に持っていたビニール袋を被ってみた。ビニールの感触は、肌にまとわりつき、余計に俺を暑くした。俺は彼らと同じく、じっとしていることにした。  存在がバレてもいいから動こうかな。そう思い始めたときに、車のドアが閉まる音がした。俺はひと息吐いて立ち上がり、背伸びをした。車はエンジン音とともに、遠くへ行ったようだった。  すると、何かが上から落ちてきて、乾いた音を立てた。驚いて、横に体をずらすと、落ちてきたそれはペットボトルだった。 「地元の海を」  俺はペットボトルを拾いながら、そう言った。しかし、言うほど怒りはこみ上げていなかった。  せっかくだから、貰っておこう。上から落ちてくるなんて、天の恵みかな。……いや、待て、人が捨てたものを天の恵みとしたら、あまりにも情けない気がする。でも、まぁ、いいか。  俺はペットボトルを、弟から手渡されたビニール袋に入れた。
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