みかんの皮

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みかんの皮

 一年ぶりに海へ行くことにした。そこらの海とは違う地元の海へ。良くも悪くも、思い出のある海へ。初めて出来た彼氏とも何度か行ったことがある。特に何もすることがないから、ただ話をするだけだった。でも、私にはそれで十分だった。初めての恋の成就に舞い上がって、背伸びをしすぎてもいいことはなかったはずだ。きっと。 「海、行かない?」  私は居間にいた、雑誌をペラペラとめくる暇そうな弟を誘った。  弟は雑誌を開いたまま、私を見た。 「え? まあ、いいけど」 「じゃあ、車で待ってるから」  私は外に出て、マーチのエンジンをかけた。五分ほどすると、外着に着替えた弟がやってきて、助手席に座った。 「冷房つけようよ」とドアを閉めて、弟は言った。 「窓、開けてるからいいじゃん」 「冷房の方がいいよ」 「えー?」と私は再度言った。 「ダメなの?」 「仕方がないなー。つけな」 私が言うと弟はエアコンを操作し始めた。 「寒いのは嫌だからね」  私が注意すると、弟は頷いた。 「わかってる。そっちは前向いてね」  海に向かって車を走らせていると、だんだんと彼氏との思い出がよみがえってきた。あんなに好きだったのに、なぜ私たちは別れてしまったんだろうか。 「そういえばさ」と弟は私に話しかけてきた。 「なに?」 「お姉ちゃんって、みかん好きだよね」 「うん。好き。好きだけど、それがどうしたの?」 「でも、皮が一番好きなんだよね」 「うん」  弟は何が言いたいのだろう。 「みかんの皮っておいしいの?」 「おいしいよ。渋くて、少しだけ酸味があるの。あ、甘みもある」 「そうなんだ」 「食べてみなよ」 「いや、いい」  本当に弟は何が言いたいのだろうか。 それにしても、この世にみかんの皮が嫌いな人がいるのだろうか。食わず嫌いなだけで、私はいないと思う。いや、いないと思っていた。 頭の中には好きだった彼の顔が再び浮かんできた。 「お姉ちゃん、赤」  弟のその言葉で、私は頭の中にある世界に入りそうになるのを止めることができた。 「交通量多くないけど、それでも運転に集中しないと事故起こすよ」 「うん。ごめん」 「事故起こさなかったからいいけど」 「うん」  最近、何度か事故になりそうな運転をしていた。これだから女のドライバーはと言われるかもしれなかった。でも悪いのは女じゃない。悪いのは、私だ。  海岸沿いにある堤防道路を走り始めると、弟は「何考えてたの?」と黙っていた私に聞いてきた。 「ん? 私?」と、とぼけてみた。弟に男のことで悩んでいるのを勘付かれるのは嫌だった。 「そう、あなた」 「別に。何も」 「嘘だぁ」 「嘘じゃない」と私は嘘をついた。 「まぁ、みかんの皮が嫌いな人もいるけどさぁ。それは好みだよ」  みかんの皮? 「何が?」 「だから、みかんの皮。人の好みによるよ。不味いかどうかなんて」 「なにそれ。なんのフォロー?」 「別にフォローじゃないけどさ」  弟はそう言って、手に持っていたペットボトルのお茶を飲んだ。  堤防から海へ降りられる入口を少し通りすぎたところで、私は車を停めた。 「本当は不味いのかな? みかんの皮……」と弟に聞いた。  車のエンジンを切ると、弟と私は車から降りた。 「いやぁ、悩むことじゃあないと思うよ」と弟は言った。  本当にそうなのだろうか。本当は私の味覚に問題があって、彼に作った料理も不味かったのではないだろうか。彼はそれを我慢して食べていたのではないだろうか。そして、私がみかんを皮ごと食べだしたときに、我慢の限界を知ったのではないのだろうか。  しかし、やはり私にはみかんの皮が美味しく思えた。 「そうかなぁ?」と私は疑問を言葉にしながらも弟にその同意を求めた。 「そうだよ。好みだよ」と弟は言ってくれた。  弟はみかんの皮が好きなのだろうか? だが、弟が皮を食べているところを見たことがない。 「うーん。でも、みかんの皮嫌いでしょ?」 「嫌いじゃないよ。好きでもないけど」 「うーん」と私は悩んだ。  結局のところ、みかんの皮は美味しくないのではないだろうか。弟はただ私をフォローしたかっただけなのかもしれない。ならば、なぜフォローしたいのだろうか。私が彼と別れたことを知っているのかもしれない。となると、どこで知ったのだろうか? うーん。恥ずかしい。恥ずかしい。恥ずかしいなぁ。本当に、なんだ。ちくしょう。  私の頭にはまた、彼の顔が浮かんできた。  弟は家から持ってきたお茶を飲みながら、堤防に腰かけて、しばらく海を眺めていた。弟はこの海に思い入れでもあるのだろうか。弟も彼女とこの海に来たことがあるのかな。  五分くらいそこにいただろうか。私たちはどっちが言いだすわけでもなく車に戻った。車の中はまた、暑くなっていた。  堤防道路から降り、農道を走っていると、私は弟がさっきまで飲んでいたお茶入りのペットボトルを持っていないことに気がついた。 「お茶はどうしたの?」 「ああ、ほんとだ。忘れてきたかも」 「え? どこに?」 「海に」 「ええ?」と私は驚いて、弟の方を向いた。 「いや、前向いてよ」 「ええ?」と私は前を向きながら、もう一度驚いた。「ちょっと、モラルのないことしないでよ」 「あの海に思い出もあるの?」 「いや、あの海はさぁ、地元の海でしょ?」と私はなんとか答えた。  弟は何も言わなかった。  私はちらりと弟を見たが、何を考えているか全く分からなかった。 「ねぇ」と弟が言った。 「なに?」 「スーパー寄ってくれない?」 「スーパー? 何買うの?」 「パンか何か」  私は弟の運転手か? と思ったが、元々、連れだしたのは私だったのを思い出した。そういえば、なぜ私は弟に海に行こうと言ったのだろうか。一人じゃ寂しいからか?  スーパーに着くと、私は比較的空いている駐車場の隅に車を止めた。私は駐車が苦手だった。駐車スペースに突っ込んで駐車することがほとんどだった。 「駐車の練習したら?」 「わかってる」  車を降りると、夏の熱気が私たちを包んだ。だが、これも幸せのための、苦痛なのだ。スーパーの自動扉が開くと、すーっと、心地よい冷気が私たちを出迎えてくれた。これが私は好きだった。ただ、長居は禁物だ。暑さと寒さで自律神経がおかしくなる。 「ねえ、みかんあるよ」と弟は果実コーナーを指さして言った。 「あるね。夏みかん食べたい?」 「いや、別に」  弟はそう言って、どこかへ消えた。全く、何が言いたいのだろう。  私は夏みかんを買って、車へ戻った。袋から夏みかんを出していると、弟が戻ってきた。 「買ったんだ」と弟は言いながら、席に座った。弟の手にはアイスキャンディーが握られていた。 「いーなー、アイス。私のは?」 「ないよ」 「なんで?」 「なんで? って、なんで?」 「なんでってなんで? って、なんで?」 「知らんよ。みかん持ってるじゃん。それ食べなよ」 「うーん」と私は言って、みかんを皮ごと齧った。ほろ苦く、みかんの爽やかさが香る繊維のそれは、やはり美味しかった。  スーパーから出ると、しばらく何事もなく進んだが、家に通じる道にある、最後の信号に私たちはつかまった。  私の手にある夏みかんの四分の一はなくなっていた。 「いる?」と私は言って、弟の顔にみかんを近づけた。 「いらん」と弟はアイスの棒を噛みながら言った。 「皮ごと食べてごらんよ。美味しいよ」 「いらん。皮、不味いだろ」 「ええ?」  驚いた。さっきまで、私がフォローだと思っていたものはフォローではなかったということだろうか。 「でも、嫌いじゃないって言ったじゃん」 「言ったよ。でも不味いものは不味いだろ」 「えー。なんか騙された気分」 「そう簡単に騙されないでよ。俺は、好みの問題って言っただけでしょ」 「そうだけどさぁ。美味しいと思ってたんだから」 「お姉ちゃんにとって、美味しいんだろ。それでいいじゃん」 「えー?」 「ほら、青だよ」と弟は前を見て言った。  私は向き直って、車を走らせた。 「彼氏と別れたこと気にしすぎだろ」と弟は言った。 「え?」 「そんなに気にしているんなら、彼氏と仲直りすれば?」 「ちょっと、なんで知ってんの?」 「皆知ってるだろ」 「いや、知らないでしょう。もしかして、真希に聞いた?」 「真希さんからは何も聞いてないなぁ。お姉ちゃんの友達っていうだけで、そんなに知らないし」 「えー? じゃあ誰から聞いたの?」 「さぁね。まぁ、いいじゃん」  それから、私は家に着くまで、どうやってそのことを知ったか執拗に弟に聞いた。だが、弟は最後まで何も教えてはくれなかった。    私は、自宅の車両スペースに車をバックで駐車し、ギアをパーキングに入れ、サイドブレーキを引き、エンジンを切った。助手席に置いていたスーパーの袋を手にとって、車から降りる。冬の寒さが襲ってきた。鍵を閉め、家へと戻ると、家の外ではお母さんが、猫のピーちゃんに餌をやっていた。 「野良猫に餌やると、いろいろと問題だよ」と私は母に忠告して、家へ入った。  家の中は暖かかった。私はマフラーをとり、「ただいま」と言った。  だが、今、家の中には誰もいない。父は仕事で、おばあちゃんはデイサービス。お母さんは外にいるし、弟は半年前の夏、心筋梗塞で亡くなった。  私は、あの日から彼氏のことを思い出し、辛い気持ちになることがなくなった。こんなもの食べ物じゃない。味覚がおかしい。そう言って、私の好物を否定した彼のことなんかどうでもよかった。私はただ、別れたということがショックなだけだった。  そんなことよりも、私は弟を失ったことが苦しかった。あの日のことは、今でも忘れることができない。何度も弟の顔が、脳裏に浮かぶ。彼氏と海で何を話したのか覚えていないのに、あの日、弟とした会話はいつでも思い出せる。何度でも、何度でも、繰り返して思い出しても、それが色褪せることはない。  私は一番奥の部屋に行き、弟がにっこりと笑っている写真の前に、みかんを置いた。皮ごと食べはしないだろう。でもそれは好みの問題だから、いいのだ。そうでしょ? でも食べてみなよ。一回だけでいいから。皮ごとさ。  私は手を合わせて、もう一度ドライブしたいね、と心の中で呟いた。姉思いの弟はきっと「いいけど」と答えてくれるはずだ。
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