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1.妻
遠くから盆踊りの曲が聞こえてくる。夏祭りだ。玄関の開き戸がガラガラと音を立てて開く。誰か近所の人でも来たのだろう。田舎なので鍵をかける習慣などない。
「おおい、もうすぐ日が沈む。祭だぞい。祭だぞい」
案の定お隣に住む米田の爺さんだ。
「はいはい、もう少ししたら行きますから」
そう返事をし、よっこらしょと立ち上がる。七十歳を過ぎたあたりから何をするのも億劫だ。ふと自分の手に目を落とす。皺と染みで埋め尽くされた醜い手。私はため息をつき寝室に向かう。そこには敷きっぱなしの布団に横たわる夫の姿。
(昼間っから酒飲んで高いびき。いいご身分さね)
憎しみを込め眼下に横たわる男を見据える。元々そんなに仲の良い夫婦だったわけじゃない。それでもまぁ何とかやってきた。転機は夫の定年退職。日がな一日家でゴロゴロされては自分の時間なんてあったものじゃない。ここ数年は「お茶」だの「新聞」だのといった単語ぐらいしか耳にした記憶がない。しかも健康な夫に心臓を患う私のつらさはわかってもらえない。苦しむ妻に冷ややかな視線を送る薄情な夫。
(早く死んじまえばいいのになかなかお迎えが来ないね。手を貸してやろうか?)
眠りこけている夫の首にそっと手をかける。かさかさした皮膚の感触。ぐっと力を込めた瞬間、夫が低い呻き声を上げ目を覚ました。私はさっと手を外し何食わぬ顔で「いつまで寝てんの」と吐き捨てるように言い部屋を出る。もういい、祭に行こう。私は家を出て祭りの会場に足を向けた。
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