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「日が落ちても蒸し暑いね」 鹿島田は、そう言いながら襟元を掴んで仰いでいる。 白いシャツに皺が寄るのを、生田は見つめながら思った。 いや、この男もどうなんだろう。 穏やかそうで、視線が清潔で、白いシャツが似合う——むしろ、こういうどこにでもいそうなタイプほど、意外とたちが悪かったりするものだ。 元恋人の水嶋(みずしま)がその筆頭である。 彼は一見、真面目そうなサラリーマンだった。言葉の合間合間に間を設けながら丁寧に話す。くしゃっと笑った顔はまるで子どものようで、そんなギャップに惹かれた。 生田にとって初めての恋だった。 日向のような心地よさにつられて、10年以上の時間を彼に捧げたのだ。 いつのまにか大火傷を負っていたことにも気づかずに。 生田は、鹿島田の白いシャツの裾がひらめくのを、なんとなく見つめた。 別に、この男を第二の水嶋にしたいわけではなかった。どちらかというと水嶋を忘れるための踏み台にすぎないのだ。 だから必要以上にかまえたところで、仕方がない。 誘いに乗ったのは、後腐れなく遊ぶため。一夜かぎりの相手の性格など、どうだっていいじゃないか———— 躊躇いは、彼の黒いスニーカーのかかとに、自身のつま先がぶつかったことにより消滅した。 「さっきから口数少ないけど大丈夫? ほんとに具合悪い?」 鹿島田がついに足を止めたのだった。 「あ、いや……」 目を合わせられず、彼のリネンのシャツの、袖を折り返した部分にできたシワ、それから手の甲に浮き出た血管をまじまじと見た。 だめだ。そろそろなにか話さなくては。 「俺、こういうの初めてで……」 「知ってるよ。さっき聞いたから」 鹿島田の返事は、笑いを含んでか、やや上擦っている。こちらの緊張が伝わったのだろうか。 先ほどのバーで、カウンターで横並びになりながら話した時のほうが、まだリラックスできていたかもしれない。 このまますんなりいけそうだと、その時は思った。 けれど———— 「す……るんですよね。普通は、一緒に店出たら」 「へ?」 鹿島田がゆっくりと瞬きをした。彼の声や姿勢、丸い目にはまるで緊張感がなかった。 生田はなんとなく、腕組みをしてその場凌ぎをした。 「今って、ホテルに向かってるんですよね?」 生田はそう受け止めていた。 バーで隣り合わせた鹿島田と1時間ばかり話をして、彼から「場所を変えて話そうか」と言われた時——それはつまり、お誘いなのだと。 しかし、彼の態度に、先程とは違う不安が込み上げてくる。 店からの約80メートル、ここまで踏み固めてきた決意は、無惨にも崩壊してしまうのだろうか。 「あー、いや」 彼が困ったように笑った時、崩壊を確信した。 彼の視線の先には、喫茶店の看板があったからだった。
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