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「鹿島田さん、忘れ物ないですか」
「うん、大丈夫」
生田は部屋をぐるりと見回してから、やっと鹿島田と視線を合わせた。
改めて向き合うと、どういう表情をしていいかわからない。
生田は頭をかきながら、俯いた。
すると、すぐ頭上に、彼の影が重なってくる。
反射的に顔を上げると、すぐそばに彼の気配があって、まもなくして、唇が重なった。
柄にもなく、体がこわばってしまい、鹿島田に笑われた。
「ごめん。もう、そういうモードじゃなかった?」
生田は、唇を押しつけ返すことで否定をした。
抱き寄せるというよりはしがみつくようにして彼を壁に追いやり、キスをする。
「待て」を解除された犬のようながめつさが出てしまい、息継ぎの合間に笑われてしまった。
「生田君、まだ時間ある?」
「うん」
「コーヒー飲みたいから、昨日行きそびれた店、付き合ってくれない」
鹿島田の後頭部の髪の毛が壁に押し付けられたせいで逆立っている。
生田は引き寄せて頭を撫でてやり、彼から次につなげてくれたことに——ほっと胸を撫で下ろした。
「コーヒーが苦手なら、紅茶もあるよ。クリームソーダもチョコレートパフェも」
「サンドイッチもありますか」
「うん。モーニングもやってる」
鹿島田が目尻を下げた。
その、少しくたびれた、穏やかな表情。やっぱり笑顔がいいと、生田は思う。
誰の笑顔よりもずっといい。
10年もの間、心を占めていた水嶋の、少年のような笑顔は、一夜にしてかすんでしまった。
「外暑いかな」
「暑いよ。今日も晴れだって」
手を繋いだまま、薄暗い廊下を歩きながら、とりとめのない会話をする。
解かれると思ったが、彼は意外にも、手を握り返してくれた。
「今年は特に暑いらしいよ」
「でしょうね」
暑いだけじゃない。
きっと今までよりも、外は眩しいのだろうと、生田は思った。
《完》
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