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 彼女が妊娠した。  予期せぬ事態に僕は困惑した。僕が顔色に出さずとも彼女の方は何かを察したようで、静かに僕に微笑みかけるのみ。  こういった母性の目覚め方を間近で直面することになるとは思いもしなかった。彼女の顔は慈愛で満ち溢れている。 「私は産む気でいる。あなたとの大事な子。これから大切に育てていくの」  一人の子を育てる覚悟があるかと問われれば、僕は首を素直に横に振るだろう。まだその覚悟が自分にはまるで無い。僕は今年で二十六歳の年齢になった、彼女は三十五歳。世間では高齢出産扱いされるのだろうか、いやそんなはず無い、三十五歳はまだ若い部類に属する。  僕は静かに口を開いた。 「正直に告白すると、僕にはまだその覚悟が出来ていない。情けない男だと蔑んでくれてもらっても構わない。事実として僕は情けない男だ、社会的ステータスだってキミの方が断然高い。それに養ってもらうような情けない男なんだよ僕は」  僕は彼女と目を合わせることが出来なかった。きっと彼女は僕の方を真正面から見ている。  冷房の効いたリビング室内。テーブル越しに互いに身体を真向かいに向け。僕は下を向き俯いている。 「私の子宮内で細胞分裂が繰り返されているの。今にも人間という名のヒトが形作られているの。私は恐れの心を持たない。私は母になるの。この子のお母さんになるの」  人間的にも彼女の方が僕なんかよりも数倍上だった。人間の出来が違う。僕なんか虫けら同然の存在だ。 「ごめん。こんなに弱い男でごめん。きっとあの時キミは僕を選ぶべきではなかった。もっと良い人がいたはずだった」 「そんな自分を卑下するようなこと言わないで。あなたが存在しなければ私のお腹の中に存在するこの子も存在しなかった。あなたであるべきだったのよ。これは運命なの。こうなるべくしてこうなったの」  彼女のこの言葉に確かに救われている今の僕自身。一人の子を宿し夫さえも支える献身的な妻。非常によく出来た妻だなと僕は心の底から感心した。  予定では十ヶ月後にはこの世に誕生しているであろう我が子。その実感がやはりまだ持てず、男はこのような時非常に脆い存在。トンカチで叩いてやれば粉々に砕け散ってしまうほどの小さな心臓を有している。  生まれる子は男であるか女であるか。そんな些細なことですら今の僕は冷静に自身頭で考えを巡らすこともできない。  ダイニングテーブル上に置いてある缶ビールに結露がつき始め、ツーっと下方向へと落ちていき缶底部分に溜まる。  確かに祝い事なのだとは思う。しかし酒を浴びるほど飲んでどんちゃん騒ぎできるような精神状況に今の僕はいない。僕は惨めで臆病でこんな大事な局面で臆してしまう哀れな男なのだ。 「あなたに似ているといいな」  妻が何気なく喋った言葉。僕との遺伝子情報を共有する確かなる個が今発生し、妻子宮内で今にも命を宿し始めているのだ。  なんだか現実味の薄いお話のようにも思えてきて、僕は今この場が夢なのではと錯覚し始めていた。  僕は咄嗟にこの場から逃げ出したくなった。異様な怖さを感じ、腕には鳥肌が無数に立っている。正直恐怖でしかなかった。妻の妊娠は僕にとって予期せぬ事態だったから。行為をしたのは一回だけだったのに。  夏の夜が僕を色々とおかしくさせていく。狂いそのものがそこに存在し、狂う日常を平和な日常だと錯覚していたのは誰か。  僕は意を決して口にした。 「ごめん。素直に喜べない自分が存在する。本当にごめん。僕って最低な男だね」  ダイニングテーブル上にポツンと置かれた妊娠検査薬。縦線マークを示し、それが正解だと言わんばかりに僕に縦線を押し付けてくる。 「ううん、いいの。あなたとの子が生まれてくるだけで私は幸せなの。あなたは最低な男なんかじゃない、それだったら私結婚してないもん」  よくできた妻であると僕は人に自慢できる。それほどよくできた妻。  僕は自分自身を責め続けた。なんて馬鹿な人間なんだろう。果たしてこれがヒトであると言えるのかどうか。それほどまでに僕は自分のことを責め続け、まだ見ぬ我が子に謝り続けていた。 「明日産婦人科行ってくる、あなたも来る?」  僕は黙りこくってしまった。 「出産となると色々と用意しなきゃいけない物も多いわよね、私は産休扱いになるとして、これからはあなたのお給料で当分生活することになりそうね」  僕が汗水垂らして働いた給料で家族を養う。当然のことだった。僕は誰にすがろうとしていたのだろうか。  一家の大黒柱という家でいう箇所の基礎部分。文字通り人間柱にされ家を支える支柱を担う。頭蓋上部には家そのものの物質としての重量が全て掛かり、自身首部分への衝撃は凄まじい。  腰には断続的に激痛が襲い、ふくらはぎ部分がパンパンに腫れ上がる。地面下にめり込む勢いの自身足元は最終的な全ての衝撃着地点となる。  僕にこんな大それた重責を担えと。僕に果たしてそんなことが可能なのだろうか。  またしても夏の狂いが狂おしいほどに自身のことを狂わせる。狂乱演舞のご開帳。とくとご覧あれ。ご覧あれ。ご覧あれ。  締め切った窓からは夏の夜風は一ミリも入ってはこない。代わりに部屋上部に設置されたクーラーからは冷風がその勢いを止むことなく流れ続け、室内温度を適温へと変化させていく。  汗一つかいていない妻。彼女の色白の素肌に毛穴という穴は果たして本当に存在するのだろうか。  彼女が唐突にこう言った。 「あなたと一緒になれて良かったと今心から思うわ。どうもありがとう」  そう言うと妻は僕に向かって頭を下げた。  部屋が寒すぎやしないか。と僕は思った。頭上クーラーを見上げる。  真冬のような寒さを夏の夜に――。  何を隠そうこれまでのお話全てがモテない僕自身の妄想なのだから。 了
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