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 物悲しい雰囲気にしたかったわけではない。  あっちがこう言ってきたからこっちはこう言い返してやった。  途端に生じる白けるという名の白々しさ。まっさらな空間がそこには一瞬にして生じ、対象者である僕と彼女を無慈悲に包み込んだ。 「浮気してるなら浮気してるって正直に言って」  あっちはこう言ってきたわけだ。ソレに対し僕はこう返した。 「浮気なんてしてないよ、何を根拠にそう言ってるの?」 「だって首元のキスマーク。どう見たって浮気してるようにしか見えないよ」  深夜帯の暗がり夜道。夜目の利く彼女は猫のような目つきで僕の首筋を見やる。確かにキスマークらしきものはハッキリとついていた。  しかし。僕は誰かに首元をキスされたことなど最近はないように思う。彼女でさえあっても僕の首元にキスはしない。  同じ社内で恋愛することを社内恋愛という。つまりは僕と彼女はそういった関係性。  二十五歳の僕と三十四歳の彼女。元々は上司と部下の関係だった。いつからかその関係性は恋愛へと発展し、部下と上司という垣根を超えて恋人の関係性に僕らはなった。  真夏の八月中旬。外には蚊が発生する時期。きっと僕の首元は蚊に噛まれた。そう思うことにする。  暗がりの道端で痴話喧嘩とは何とも粋なモノで、夏の風物詩に華を持たせる僕らは真っ赤な線香花火みたいだ。  パッと咲いてジッと終わる。きっとこのような関係性。  彼女はきっと婚期に焦っている。そう僕には実感できる。確証は持てないが焦っていることは間違いない。三十四という年齢。婚期を逃すと生半可な努力では覆すことのできない圧倒的なモノが待ち構えている。だから彼女は焦っているのだ。 「私のことは本気じゃないの? 真剣に愛してくれてないの?」  彼女からそう問われ、僕は正直に思ったことを口にした。 「ここからは本音で話させてもらうよ。本気だった。愛していた。全て過去形。あの頃は全力でキミのことが好きだった。好きだった。今でも好きかと問われれば、僕は首を横に振ると思う」  その言葉を聞いて彼女は顔を下に向け俯く姿勢になった。長い黒髪が顔面に掛かり、ある種のホラー感を生み出している。  長いようで短い沈黙の時間。  長かった。ようで短かったようにも感じられる。そんな時間軸の歪みに僕らは誘われていた。 「返して」  咄嗟に彼女の口から出た言葉。僕はその言葉の意味が分からず困惑するばかりであった。 「私の時間返してよ」  交際期間一年弱。その時間を彼女は返して欲しいと僕に懇願してきた。  時間など返せるモノではない。金銭や物品の場合は別だが、皆が等しく歩む時間を対象者へと返すことほど困難なことはないのだ。  理路整然とした毅然とした態度で僕は彼女にこう言い放つ。 「無理だよ」 「駄目。絶対に返して」  なおも俯く姿勢の彼女。僕とは顔を合わせようともしない。  やはり目の前の光景はホラー感が色濃い様子。ジャパニーズホラー。精神的な怖さ。言いようもない不気味さ。  黒のパンツスーツ姿の彼女はキャリアウーマンを彷彿とさせる。長い黒髪は普段は束ねてある。ソレを紐解きソレは彼女の顔面を今覆っている。  再びの沈黙の時間。女と男の沈黙ほどその場を逃げ出したくなることはない。 今すぐにでも僕はこの場を離れたかった。自宅でゆっくりとテレビでも観たい気分だった。だがそれが叶うことはない。問題を解決し妥協案を見つけ出す必要がこの場合必要だった。  僕はゆっくりと自身頭で思案し始めた。  お互いが納得して別れる方法。あと腐れなく乾いた状態でパリッと別れる方法。  ――僕の思案は次第に妙案へと変わり、それは一種の閃きとなった。 「婚姻届を出して結婚しよう。そして翌日には離婚届を提出し離婚しよう」  我ながら良い案を見つけ出したものだ。婚姻歴にお互いバツが一つ付くだけ。 相手が結婚を急いでいるのならば結婚してしまえばいいのだ。そしてすぐに離婚する。相手は結婚した事実が欲しいのであって僕自身を必要とはしていない。  事実として金銭面では彼女の方が裕福だ。給与もかなりの額を貰っている。それなりの独身生活を謳歌することも難しくはないだろう彼女の場合。  セミも鳴かない丑三つ時。頭上には綺麗な満月が一つ。その脇には朧雲が出始めていた。これは雨の前兆。  金色に輝くウサギを追いかけようとも、対象物は逃げ惑うばかり。ならば餌で釣ってみるのだ。ニンジンという餌で釣る。  婚期を逃したくないと思う女性には優しく接してあげなければならない。相手は傷つき深手の負傷を負っている。慈愛の心で哀れみの心を持ち、辛かったですねと声を掛けてあげなければならない。  真夏の暗がり路上での光景。熱帯夜特有の蒸し暑さでも彼女は汗一つかかない。まるでマネキン人形のようで俯いたまま長い黒髪が顔面を覆っている。  日本固有のジャパニーズホラーというモノがある。スプラッターやグロではなく、何か精神的に訴えかけるような怖さ。  日本の夏に怖いお話は毎年の恒例のようなものである。真夏の熱帯夜で火照った身体も怖いお話を聞けば涼むことができる。古来から日本人というものは怖いお話を好んできた。怖いもの見たさという言葉が存在するように、人間は禁忌の裏を垣間見ろうとする性質を有する。これはヒト本来に備わった知恵と関係してくるお話でもある。  知らないことを知りたいという欲。スリリングな体験をしアドレナリンを分泌させたがる。怖いもの見たさ。  蝋燭の炎が一本消えるごとにヒト一人が姿を消す。二本消えると二人が。三本消えると三人が。その場から音もなく消え去る。  全ての蝋燭の炎が消えた時――地球という星に人類という名のヒト科の生物は存在しなくなる。  蝋燭の炎が消えた際の煙臭さだけを残して。  煙のようにヒトは消え去っていく。
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