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ひな鳥は雨の向こう
屋根に降った雨が軒先から滴り落ちる。その落ちる箇所に一定の規則があることを見つけて、風志朗は庵の中からそれを眺めた。
菊一は勤めに出かけていて留守だ。この簡素な庵は師弟が生活に使っているもので、風志朗にとっては安心できて、居心地が良かった。今日は夕方から雨が降ったせいで一緒に連れて行ってもらえず不服だったが、あと半刻もすれば師匠が帰ってくるはずだ。
へたれた座布団の上で翼を布団代わりにうとうと転がっているところへ、水浸しの地面を走る音が聞こえてきた。風志朗が起き上がるより早く、足音は庵に辿り着き菊一を呼んだ。
「先達さんいるか!?」
体が大きく脚が長く、強そうな見た目をした若者だった。背中に小ぶりな翼を持っている。顔つきは少年のようだったが、風志朗にとっては十分大人に見えた。初めて見る相手だった。
「ししょう、いません」
「そうか、先達さんが帰ったら伝えてくれ!ユルキ……波山の子供が一人見つからない。こっちに来てるかもしれない。捜してほしい」
若者は相当焦っているようで、早口で捲し立てた。風志朗はこういった相手が苦手だった。しかしその話の中に知った名前が聞こえ、若者が走って出て行こうとしたところを呼び止めた。
「ユルキ?」
「おう、俺の妹だ。居場所知ってるか!?」
いもうと。どういう関係なんだっけ。思い出そうとしたが、すぐに思い出せなかったので諦めた。しかし若者とユルキが近い間柄で、若者にとってユルキは大事なのだと理解した。
「……しりません」
「ユルキの友達か?ああ、最近天狗の子と遊んでるって言ってたの、お前か。昼前までは近所にいたらしいんだが、そのあとがわからねえ。頼む、見かけたら捕まえといてくれ!」
幼い風志朗に合わせる余裕もなく、若者は言いたいだけ言い散らかし、菊一を捜しに行った。
残された風志朗は、若者がぶちまけていった情報と感情に揺さぶられていた。「妹」の意味は思い出せなかったが、ユルキと近い間柄の大人があれだけ切羽詰まっていた。風志朗の狭い世界で、守ってくれる大人と離れることは死に近づくことだった。何よりも自身が、大人とはぐれることに大きな恐怖があった。
「ううう……」
体の中に不快感が溜まっていき、風志朗は頭を抱えて呻いた。ユルキは師弟のもとによく遊びにくる。彼女は物怖じも遠慮もしない性分で、遊び方が荒っぽいのと菊一をとられるので、風志朗は正直なところ苦手としている。しかし風志朗の中での存在は大きく、こんな形でいなくなって欲しくはなかった。
日が沈むこの時間、師匠は一番大切な仕事をしている。師匠が帰ってきてどうにかしてくれるのを、待っていてはいけないような気がした。不快感に突き動かされて、下駄を履いただけの格好で庵の外に出た。傘は大きくて、風志朗には持ち出せなかった。庵は森の中に隠れて建っているため、やや見通しが悪い。今日は雨のせいでより一層視界は不良だった。
自分の足で捜すのは無謀に感じて、飛ぼうと試みた。弱い翼では飛べず、水溜りに落ちた。風志朗はまだ天狗の翼で飛ぶことができなかった。昨日もそうだったのだから当たり前だが、今日はユルキの件で感情が乱されて、出来ないことに余計に苛立った。
気持ちよく寝ていたのにこんな情報を持ってきた若者にも、いなくなったというユルキにも怒りが湧いた。それはユルキの身を案じる気持ちからくる焦りで、飛び出していった若者と根本は同じ種類のものだった。風志朗はまだ、不安と苛立ちの区別がつくほど心が育っていなかった。
若者は西の森に来ているかもしれないと言ったが、西の森には師匠がいる。だから迷子を見逃すはずがなかった。風志朗は東に走った。
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