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二章 五月二週目の木曜日
「いってらっしゃい」
朝八時。譲は出勤する諒を見送った。
先週、任されていた大きめのプロジェクトのカタがついた譲は、諒の勧めもあって辞職した。今は転職活動をしていて、数社にエントリーしている。その中には諒の勤める会社も入っており、その会社とは明後日に面接をすることになっている。
前職を辞めての転職活動なので、一日中家にいることになった譲は、普段はできないようなところの掃除を諒から頼まれていた。
諒は家事全般が得意で、主に料理を得意とする。対して譲は、きれい好きな性格が高じて掃除が得意である。今日は風呂場のカビを取ることにした。昼食も取りつつカビと奮闘していると、チャイムが流れてきた。夕方を知らせる区内放送だった。
「夕方になるのはっや……」
譲はしゃがんでいる姿勢から立ち上がって、腰を伸ばした。そのついでに風呂場を見渡すと、ほとんどカビは取れていた。
特に観たいテレビ番組もなく、ソファに寝転がって動画配信サイトを観ていると、時計が目に入った。十七時三十分。そろそろ諒が帰ってくる時間だ。今日の夕飯のメニューは何だろう。譲は諒の帰りを楽しみに待っていた。
それからまもなくして、鍵の開く音がした。諒が帰ってきた。洗面所で手を洗っている音もする。うがいまで済んだのか、諒がリビングの扉を開けた。
「おかえり」
譲が声をかけると、いつものように諒が微笑んでくれるはずだった。
「……どうした?」
普段通り笑顔を見せたつもりになっているのだろうが、付き合いの長い譲には、それが普段通りではないことがすぐに分かった。しかし、譲の追及をなかったことにして、諒はキッチンへ向かった。その背中を見送って、譲もいつものように風呂場に向かった。
体を洗って湯船に浸かりながら、譲はあの顔の既視感を考えていた。
あの顔、見たことある。譲はそう感じた。いつだったっけ、そう、あれは、中学の頃。理解のない教師や先輩に、話さないのは甘えだと言われて、話せないのに話すことを強要されていたときだ。またそういうことがあったのかと思うと、譲は悲しくなった。
譲はいつもの長風呂を止めて、諒の様子を見にリビングでスキンケアをする。盗み見るようにキッチンの諒を見ると、背中が寂しそうだった。
料理が完成したのか、諒が皿を並べ始める。ちょうどスキンケアの終わった譲もテーブルに合流する。ふたりでいただきますをして食べ始めるが、いつもは感じない沈黙を感じて、料理の感想も言いにくい。大した会話もできないまま、諒は食べ終わってしまった。こころなしか、食欲もなかったように見える。
諒が体を洗っている間に、譲は食器洗いを済ませる。やることが終わったあとは、ソファに座ってテレビを観ていた。それからしばらくして、風呂上がりの諒が隣に座ってきた。座るやいなやスマホをいじっている。譲は、諒の言葉を待った。
『今日、研修で子会社の人と一緒だったんだけど、』
諒はそう入力した。しかし、その先は、指がああでもないこうでもないと画面を滑るだけだった。
「悔しいな」
そう言って、譲は諒の肩を抱いた。何年一緒にいると思っているんだ、言われたことくらい想像つく。譲は頬にキスをひとつ落として、ベッドへ手を引いた。
ベッドに腰かけて、お互いに見つめあう。いつもなら黒曜石のようにきらめく諒の瞳は淀んでいた。譲は唇にキスをして、諒を待つ。
諒だけでなく譲も、セックスを対等なコミュニケーションと思っているふしがある。言語化できない気持ちは、身体で昇華させれば良い。そうすれば、俺たちなら分かりあえるから。
諒がおもむろに顔を近づける。何度か啄むようなキスをして、舌を入れる。譲は、はやる気持ちを抑えて、そっと諒の服の中へ手を侵入させた。しっとりなぞって、もちもちな触り心地を楽しむ。諒もおずおずと譲の身体に手を伸ばした。愛しい相手に触れていると安心してくる。ひとしきり堪能してから、お互いに服を脱いだ。
「慣らしてきた?」
譲がそう聞くと、諒は頷いた。初めてのときから、諒は自分で慣らしてくる。いつだったか理由を聞いたら、早く抱かれたいからと言っていた。
譲はベッドサイドからゴムを取り出し、素早く装着した。諒はつけ終えた譲の手を引っ張りながら仰向けになった。
「押し倒されんの、好きだよな」
諒はゆるく笑った。いつもより元気はないものの、それでもいつもの妖艶さを兼ね備えた微笑みは、若干サディスティックの気のある譲を高まらせるには十分だった。
「入れるよ」
もう何年も譲に抱かれている諒であっても、入れられる瞬間は緊張してしまう。それには異物を入れられることの緊張だけでなく、これからへの興奮も含まれている。
諒の形の良い眉が歪む。いつもならひとりで耐えようとするが、今日の諒は違った。腕をさまよわせ、諒の腰をつかむ譲の手を求めた。それが珍しくて、譲は重ねられた手を恋人つなぎにした。
「……入った……」
学生の頃は最奥まで攻めるなんてこともしていたが、二十代後半に差し掛かった今では無理をしないで、入るところまで入れている。諒は結腸を攻められるよりも、前立腺を擦られるほうが良いらしい。
少ししてから、譲はおもむろに腰を動かし始めた。譲はサディスティックでツンデレだが、目の前にいるのは好いている相手なので、まずは諒を気持ちよくさせる。自身のそれで前立腺を扱けば、諒は身体を弓なりにしてよがった。
「ほんと好きだね」
諒は涙目で譲をにらんだ。かわいい抵抗だったので、ますます譲のサディスティックさに磨きがかかる。
「ねぇ、俺のちんこと、俺、どっちが好き」
譲はたまにこういう質問をする。快楽に溺れた諒は、倒錯して譲自身を選ばない。自分の腹に手を当てて、満足そうに微笑むのがほとんどだ。そうして譲のなかにあるツンデレでサディスティックな面を引き出して、お互いにプレイに満足する、というのがたいていの流れである。
「答えて」
諒は譲と握りあってないほうの手を上げ、譲を指さした。思いがけない選択で、譲は腰を止めてしまった。人生のほとんどを一緒に過ごしてきて、分からないことなんてないと思っていたのに、この選択理由が分からなかった。
「……へぇ、俺なんだ」
試すようにもう一度聞いても、答えは変わらなかった。腰の律動を再開させながら、譲は考えていた。
そもそも最初から変だった。譲の手を求めるなんて、何年ぶりだろう。そういうプレイの文脈で譲のそれを選ぶことも、今日はしなかった。一貫して譲を欲しがっていた。
そこで、譲は合点がいった。
「諒、俺を見て」
譲はやや意識の飛びかけている諒に声をかけた。
「諒、俺は、ずっとお前のそばにいるから」
諒は目を見開いた。見開かれた瞳は揺れている。
「前にも言ったけど、俺は、諒が大好きなんだよ。話せないからって、離れるわけ、ないだろ」
ぶわりと、諒の目から涙が溢れる。
諒は強い。昔から風邪ひとつひかないし、たいていのことにも動じない。それでも、心の柔らかいところに土足で入られたら傷つくし、話せないことは諒最大のコンプレックスだから、引きずってしまう。譲は昔から、諒が傷つけられるたびにその傷を癒してきた。
「……やば、いきそ」
湿っぽい雰囲気は終わりにして、譲は腰の動きを速める。
「ね、そんなに俺が好きなら、俺と一緒にいける?」
今日は優しく抱こう。譲は行為時にいつもする獰猛な目は止めて、優しく諒を見つめた。
本格的にいきそうになったので、譲は射精するための動きにシフトする。それでも、諒を大切に抱くことは忘れない。諒の腰をつかんでいた右手も諒と恋人つなぎをして、一緒に果てた。
譲はつぶさない程度に諒の上に乗っかった。お互いの鼓動だけが響いていた。
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